続きです。


『症状が悪い時、自分が辛いように、

家族もまたどうすればいいか分からず辛い思いをしているのだ』

という事を、思い出す私。



私は何かあった時、自身の症状をなるべく客観を交えて伝えるように心がけていますが、そのように話せない時もあります。


苦しい内情を自分の主観と感情にどっぷり浸かって話す時、


つらい、悲しい、怖い、許せない


などの自分の中の負の感情がダイレクトに伝わってしまう気がします。

というのも、そんな話し方をした後に相手の表情を見てみれば、大体目の前の人も私と同じくらいーあるいはそれ以上に、辛そうな顔をしていますから。


荒れる感情をそのままぶつけてしまえば、支える家族だってきっと辛い。



「どうにかしてあげたい」

「どうにか良くなって欲しい」


そう思っている家族や周囲に対して、


「どうせ分からないでしょ」

或いは

「なんでそんな事も分かってくれないのよ」

と、


一方的に閉じこもったり当たり散らし続ければ、家族も当人も随分とまいってしまうと思います。


大体の家族の人は、当事者の気持ちがわからないなりにも「なんとか良くなって欲しい」と強く思っていると思うんです。


もちろん自身の症状が悪い時に家族の気持ちまで考えていられない、場合によっては家族まで敵に思えてくる、という事は骨身に染みるように分かるけれど、

それでも、あまりに長い期間荒れて当事者と家族の距離が出来てしまう前に、可能であれば苦しんでいる当人から事前のことわりや希望を「穏やかに」伝えていく事は、当事者自身の安定にも、家族の安心にもつながるような気がするんです。



もっと言えば、こういう事は、メンタルヘルスに限った事でない気もしています。


日常の些細な不満や不安、不具合も、

自分の現状、心状を穏やかに伝えて、何かお願いしたり相談した方が、伝えずイライラして距離を作ってしまうよりずっといい事なのかもしれません。


自分の取り扱い説明、私も家族以外の関係ではなかなか伝えられませんが、


相手を尊重しながら自分をうまく伝えられるようになる事は、生きやすさのヒントになるんじゃなかろうか


なんて、そういう事を先日のメンタル不調から思ったりしました。



最後まで読んでくださって、ありがとうございます。



病状の波により、時に職場や家族、友人に迷惑をかけてしまう事がありました。

 

そんな時でも、相手を尊重しながら自分の内情について穏やかに伝えられる事ができたなら、相手も自分も、少し救われるんじゃないかと思う。


 

ひと時、メンタルを崩して大変だった私。

 

統合失調症でしばしば起きる、被害妄想なり、幻聴なり、という症状は、腹痛や吐き気と違って多くの人は経験したことのない症状だと思います。

 

だから、こうした症状が出てくると、本人も大変だけれど、周りの人もどうしていいか分らなくて随分大変だと感じます。

 

私の過去一番に悪い症状は、「監視されている」という被害妄想と「監視された私の言動への暴言」という幻聴で、

この状態まで陥ってしまうと自身の病状を周囲に伝えることすら、かなり苦しさを伴います。


けれど最近は、悪くなった際も症状の波を見計らって、時々に変わる自分の内側の症状と、それにどう接して欲しいかを伝えるように心がけています。


少し前の実家での療養の際は、


「今、自分にどういう妄想があるか」

「被害妄想と思っていても思えない瞬間があること」

「音が通常より大きく聞こえるので小さめの声で話しかけて欲しい事」

「気分の浮き沈みがあるので些細なことで怒る可能性があるが気を悪くしないで欲しい事」


など、到着当初に伝えました。


それは始めの日だけでなく、何か生活上不具合を感じるたびに、相手の都合にも配慮しつつ、自分の現状と希望を穏やかな調子で伝えるように心がけていました...


なんて書いていても、もちろん毎回穏やかに伝えられた訳でも、伝えた事を完璧に理解し実行して貰えた訳でもないんです。(ただ随分気を使って貰えました。)

症状がひどい時の私の癇癪は凄いものです。


けれど、

少なくとも冷静な時は自分の取り扱い説明を家族に伝えるよう心がけているのは、


『症状が悪い時、自分が辛いように、

家族もまたどうすればいいか分からず辛い思いをしているのだ』


という事を、我に返るたび思い出すからなんです。


続きます

人生で出会う言葉が一冊の本だとしたら、

私がそのときどきに持っていなければならない量なんて、17字の俳句程度に思われる。

 

 

体調が悪い時分に、しばらく実家に帰って療養生活を送っていました。

 

特にやることもないのでkindle unlimitedのお試し期間なのをいいことに、「ミニマリストしぶ」さんの『手放す練習』という本を読みました。

 

その本自体もとても良いことが書かれていたのだけれど、本の中で紹介されていた岡本太郎さんの言葉、

『人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。』

という言葉が強く印象に残っています。

 

続く言葉として、

『財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。』

とあって、それもまた然り、なんて思ったり。

 

 

生きるというのは本当に積み減らし、積み崩しだーと思う。

 

たとえば私は大学で随分時間をかけて生物を学んだけれど、そのうち卒業後に使った知識はどれほどだったか。

実家に残されていた教科書をながめ、

 

「この分厚い本の内容、ほぼすべてを私は忘れてしまっただろうなぁ。」

 

と、漠然と思った一方で、

当時感じた、

 

『命の複雑さへの驚きと命そのもののかけがえのなさ』

 

というものは、なんど積み崩されようとも心の中に残り続けるだろうとも思いました。

 

 

実家にある、昔読んだたくさんの本やノート、手帳類を手放すために片付けながら、

 

「これら一つ一つを私は自分の中に積み重ね、そして既に手放していったのか」

 

なんて思うとちょっと感慨深くもあり。

 

 

言葉も、知識も、積み重なって層をなす。

時にその層から崩れて流れて行ってしまう知識もあるかもしれないけれど、

それもまた必要な工程のように思ったり。

 

じっくりと成した層の深い奥の方に、一片でも残るものがあればそれでいいのかもしれない。

 

本になぞらえるなら、

私がその時々に持っていなければならない考えなんて、一冊の、あるいはたくさんの本の中の一行の俳句くらいなもの。

 

そちらの方がずっと身軽でいいじゃないか

 

そんなことを思ったりしました。



最後まで読んでくださってありがとうございます。