「国際的な会社」
ベトナムのスタッフをタイへ呼んで、
タイ人、ベトナム人、日本人で食事をした際、
15名程なるその中から誰かが言った。

あまり気にしたことも無かったが確かに。

代理店に任せる市場はあるとしても、その拠点は一応はほぼ全世界を網羅している。
言語の違う三カ国のアジア人が集まってタイで食事をしているのだから、
確かに国際的な会社と言えるのかもしれない。

ベトナムにしてもタイにしても、
自国産業がそれほど成熟している国ではない。
60年近くも日系企業が車を作っていても、タイではメーカーすら現れない。
基本的には自発的にその産業を発達させようという気は無いのだろう。

その一方で、外国投資、つまり私たちのような外資系企業に務める、
大学卒の優秀な人材が数多くいる。
日本ではあまり見ない光景だ。
それは、前述の通り自国の産業がないという裏返しとも言えるだろう。
日本は優秀な民間企業が多くあり、外資系で務める日本人は相対的にその割合は低くなる。

東南アジアの人々は知らず知らずのうちにその様な環境の中に身を置き、
逆に日本ではそのような環境を手に入れることは容易ではない。
もちろん可能だが、比較をすると少なくなる。
排他的な国民性もそれを助長しているのだろうか。

今日もベトナムからの帰り便の中、
ワインを飲みながらそんなことを考える。

さて、私たちの子供の世代は、
益々生き難い時代を迎え、乗り越えなくてはならない。
其の為の道標だけでも、作ることができれば。
そんな事を少し考える時間。

ちょっと酔ったかな…。
ってゆうか僕も歳をとったもんだ…。

ひろ
1945年8月。

この日から現在までのことを日本人は「戦後」と呼ぶ。
間もなく70年を経過しようとしている歴史に残るその日から、
今までがずっと同じ「戦後」という言葉で一括りにされている。

確かに戦争が終わった後、高度成長期やオイルショック、バブルなどの呼び名は、
その時々を移す経済状況によって与えられてきた。
さまざまな思想や犯罪、自然災害などがその間を襲い、覆い、その度に乗り越え、
今日まで力強く進んできた日本。

それでもやはりでもこの国は戦後から
戦後というたった二文字の
世界で一番短い呪縛の言葉から
抜け出せないで居るのではないのだろうか。

隣国は、さまざまな理由から先の大戦での出来事を引き合いに出す。
この国の政治家は、それを真摯に受け止め、
そして謝罪を繰り返していく。

たくさんの罪のない人たちが命を落としていく。
その中には、現在でも悪と例えられる政府や軍の取った行動も有ったのかもしれない。
だがしかし、例えそうであっても、
現在を生きる私たちが、それを今になっても詫びる必要があるのか?
戦争に勝った国が、
その中で葬った命もあっただろう。
彼らは今でも、いや、彼らの子孫は今でも、その事を詫びているのか?
戦いに敗れたたくさんの小国の中で、今でもその時代を引き合いに出す者が居るが、
彼らの祖父の中にも手を地に染めた者たちが居るだろう。
彼らは今でも空に向かってざんげをするのだろうか?

過去だろうが今だろうが、戦時中だろうが戦後だろうが、
そんな事は関係ない。

今出来ることが、今だからこそわかることが、
そして今言わなければいけないことがきっとあるのではないだろうか。

私たちに出来る事は、詫びることではなく、
もっともっと超え高々に、戦いの恐ろしさを伝え、無意味さを訴え、
無意味なことを叫び続けることに有るのではないか。

きれいごとではない、現実としての平和を、
其れを目指す覚悟を持ち、叫び続ける必要があるのではないか?

2045年8月。
戦後という言葉が、ある一時期を示す言葉に代わっていることを、
私は願いたい。そしてその時には、
理由はどう有れ国同氏のいがみ合いでの殺し合いがなくなるれば、
或いは無くなろうとしていれば、そんなに幸せな事は無い。

その時私は66歳。
定年を迎えても年金が貰えず、
世界のどこかで走り回っている現役のビジネスマンをまだしているのだろう。


ひろ
3 Nov, I am writing this in the airplane going back to Bangkok from Japan. It was really busy 5 days but it went well. I have met some customers and some people I appreciate. It was nice business trip for me anyway.

I could meet some friends had not seen for a long time. Everyone is very important and want to grow up together...

Had met coworkers. I felt comfortable. There was nothing changed. Had met friends who had not seen nearly 10 years. They were young but had stepped up a lot now. I believe they will be great people more than that. Had met one of my friend came back to Japan from States. We were lucky to go back same time by chance. I really don't know when we can see next time but I feel that we will see again soon. There is no reason I think like that. Had important reunion as well. I wish we each other will be happy for entire our lives.

After I met the last friend, the air was cool and comfortable. I felt something very nice and different. We can not see often but now I know I have such nice friends and people around me. Couldn't see some and even don't know where some of them are. But I believe will see again one day. There is no reason I say like that, though.

Now I wanna see the friends who know for long time since I was child next.

People cannot live by themselves. This is true and I think so, too. But really life is much more tough and i think that words are very important these days. Also I am very happy to have such great guys. I wish their happy as well from bottom of my hearts, of course.

3rd Nov 2012. It will be one of my turning point of my life. I really feel it.


Hiro


iPhoneからの投稿
11月3日、日本からバンコクへと戻る飛行機の中でこれを書いている。仕事での日本出張。なんだかんだと慌ただしい5日間だったが、其れなりに上手く事を終えた。以前の取引先やお世話になった人にも会え、個人的に有意義な出張でもあった。

少し時間を作る事で懐かしい人たちにも会うことができた。その全てが大事な友であり、共に成長したい仲間であり、大切な存在であり。。。

仲間たちとの再会があった。あの頃と全く変わらない、一緒に過ごすその時間にホッとした。9年ぶりの再会もあった。彼らは大きく成長を遂げていた。当時から優秀だったがまだまだ若かった彼らの存在感は、それはそれは大きなものになっていた。奇跡的な再会もあった。お互いに違う国に住んでいながら、日本で再会が出来た。次にいつ会えるかもわからないが、何だかすぐに会えるような気がして仕方ない。きっとお互いにそんな存在なんだろうと思う。言葉にできない再会もあった。お互いに幸せな未来が待ってる事を願ってやまない。

最後の友にあった後、気持ちのいい風が吹く中、見上げた空は美しく、身に纏う空気は何だか今までとは違う。普段は会う事が出来ないが、自分にはこんなにも素敵な仲間たちがいる事に大きな幸せを感じた。今回会えなかった仲間たち、どこで何をしているかも分からない人もいるが、何故だか心配もなく、彼らにもいつでも会える気がして仕方がない。それは根拠の無い思い過ごしでしかないのかも知れないが、それでもなお、再開できる日を心待ちにしており、またできると信じている。

次は心を許せる、子供の頃からの仲間たちの顔を見たくなってきたな。

人は一人では生きていけないと誰かが唄った。勿論その通りだ。だが現実はその言葉以上に重いものではないのかとの年になって思うようになった。家族や恋人とはまた違う、「大切な存在」を感じられる自分は幸せだと思い、また全ての仲間たちの幸せを心から願う。

2012年11月3日。僕にとって、一つの転機になる。そんな気がしている。

ひろ

iPhoneからの投稿
あの日、ガソリンスタンドのバイトを終えて、つなぎのまま自宅でテレビを見ていると、大学の友人から電話が有り近くに居るから寄ると言う。何故遠くに住んでいる彼がうちの近くにいたのかは全く記憶にないが、短期留学から帰国したばかりの僕は、早々と就職活動を終わらせて卒業後の留学へ向けて毎日がバイト付の日々だった。

他愛ものない会話をしている中、テレビに写っていたのは飛行機がビルに突っ込んで行く映像。最初は全く気がつかず、「リアルな映画」そんな程度にしか思っていなかったが、2機目が映し出されるとそれは全く違う状況であると気づかされ、その数分後には言葉が出なくなっていた。

すぐに何人かの友人に連絡を取ろうとしたが、それは今から10年以上も前の話。インターネットや電話の環境も違い簡単にはいかない。後から聞いた話ではバンクーバーに住む友人達には何の問題も無く、着地できなくなった飛行機を受け入れる為、バンクーバー国際空港は一時ごった返したという。同市は今でもその時のことを誇らしげに語っている。

時は経ち、WTCの跡地には新しいビルが完成建設されている。綺麗な公園やミュージアム、当時を忘れないように色々なイベントがこれからも開催されていくだろう。

亡くなられた方達にはこの場を借りてご冥福をお祈りしたい。また同時にその後の戦争で犠牲になった多くの人たちにも手を合わせたいと思う。この戦争が正しかったとは思えないが、(戦争がどんな理由が有っても正しいとは思えないが)ここではその議論をするつもりはない。

翻って我が国。

震災から1年半。今も復興には長い時間と多額の資金、大きな力が必要だと思い知らされている。そびえ立つ原子力発電所の行き先も分からない

偽善者になるつもりも、左に触れるつもりもない。ただ、大きな転機で有ることに違いはない。皆が国の将来、
自分の将来、我が子の未来を考え、大いに議論すべき時が来たということだろう。

原発に拘らず、今の日本を外から見て(中にいてもそうだったが)、やはり行き詰まり感が有ることは否めない。

近い将来、ギリシャやイタリア、スペインのように厳しい状況が来る事を誰が否定出来るのだろうか?アメリカのような絶対的パワーも資源も、中国のような労働力もブルトーザーのような政策も、東南アジアのような若い労働力もハングリー精神もない。

我々に残されたものはなんだろう。難しいことを言っているわけではない。かっこいいことを言っているわけでも悲観している訳でも無い。

ただ、よく考える時が来た。
ただ、それだけのこと。

さて、酒を飲みながらでも、食卓でも、職場で休憩時間にタバコを吸いながらでもいい。隣の人と少しだけ、そんな会話をして見ませんか?

少し違う方向に行きましたが、こんな大惨事が二度と起こりませんように。同時にニューヨークの復興を、新しいWTCを歓迎します。

ひろ

photo:01




iPhoneからの投稿