あの朝ドラの、松江→東京 移動 9日 について考察する。
前提:
● ドラマ冒頭が、明治8年・おとき7歳となっている。よって18歳の時は明治19年(1886年)、この年に結婚したと推定。
史実では、1868年生まれで、18歳で結婚したので、数え年を考慮しなければ合致する。
● 出奔時期は不明確だが、結婚後1年程度、2年も経ってないと思われる。おときの東京行きはその後まもなく、かつ団扇を使うシーンが有るため夏と思われる。よって、明治20年か21年(1887‐88年)の夏に移動したものと推定する。
史実では、結婚から1年足らずで出奔。但し出奔先は大阪。
考察:
この時期の鉄道は、絶賛建設中だが全通に至ってない。
開通してるのは西から順に、神戸-大津間。湖上汽船連絡を挟んで、長浜-武豊間。国府津-東京(新橋)間、但し1887年7月に国府津延伸したばかり。
大府(愛知)から浜松までの延伸は1888年9月であり、おそらく間に合わない。
1889年の東海道線全通当時、神戸発東京行きは約20時間で走っており、仮に浜松-国府津(180km)を徒歩連絡での鉄道利用とすると、鉄道1-2日+徒歩約5-6日=合計6-8日かかる。ここには松江-神戸間の所要日数を含んでないから、到底間に合わない。
もう一つの手段は船。
幕末には関東ー関西間の航路利用が始まっており、鉄道全通までは交通機関の主役だった。但し2日かかる。
瀬戸内海は、山陽鉄道未開業でもあり、水運の全盛期。中小事業者の競争が激しく、大阪商船に合同したほどである(1884年)。現代の阪九フェリーが20ノット・12時間ほどなので、その倍ほどかかっただろう。岡山-神戸位なら1日(120km・10ノットとして、6-7時間)。 (なお山陽本線は1888年11月に明石、12月に姫路まで開通)
日本海側は良く分からない。境港は存在していたが、そこから下関までの便が頻発していただろうか? あったとして、やはり2日くらいかかるだろう。
ネットを見る限り、大阪商船の大阪-下関-境航路(第12本線)が有るが所要時間は見当たらない。また大阪商船は下関-境航路(命令航路)を月4回運航とあり、単純計算だと片道3日程度だ。(なお下関は、この頃は赤間関または馬関という地名である)
これらを全て合わせると、6-7日となる。松江から境港に出たり、乗り継ぎの船待ちを含めれば9日くらいになろうから、もっともらしい。
同時期に、横浜から松山まで4日で移動という記事https://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/e/bbdb8190da7762d65b47c4c081eaf10a
もあるから、そう大きくは外れてないと思う。
但し、船の乗り継ぎだと徒歩が殆どなく、足を痛めながら東京を歩く、というシーンに合致しない。横浜東京間を歩いたから、というのもなんだかインパクトがない。また全行程で乗り物に乗れるほど、おときは裕福だったろうか? 松江→下関間は便数が少ないのも具合が悪い。
そこで、途中までは陸路(つまり徒歩)ではないかと考えた。
松江近辺の学校の明治期の修学旅行記録を見ると、山を越えて岡山に出て、そこから船でこんぴら参りに行っている。費用的な面から言っても、このルートがもっともらしい。
https://mainichi.jp/articles/20170705/k00/00e/040/145000c
この記事を見ると、米子まで船、そこから四十曲峠を越え落合(美作落合)まで徒歩、そこから旭川を船で下っている。そうだ、昔の日本は内航船(内陸水運)も盛んだったから、これを利用しない手はない。
米子から落合まで80km・2.5日、そこから岡山まで60km・1日程度か。ここから大阪か神戸まで船で1日。ここまでで4-5日消化してるので、浜松-国府津を歩いてたら到底間に合わない。しかし、東京行きの船で直行すると、今度は9日も掛からない。計算が合わんなあ。
となると、落合-岡山も歩いたかもしれない。米子-岡山140km・5日程度なので、船の日数を入れるとほぼ9日になりそうだ。
この他、神戸-武豊港を鉄道利用し、そこから船で東京へ、とも考えた。武豊町沿革町勢要覧によれば、三菱の東京-四日市航路が、明治15年に武豊寄港を始めており、また明治18年には東海道線建設のための桟橋が出来ているから、ここから乗船して東京へ行く事も可能だったと思われる。但し、神戸から船で直行するより高くつくと思われるのが難点。
よって、おときの行程は「岡山から横浜は海路、他は陸路」で鉄道は使わないものだったと推定した。
1日目:朝松江発→(中海舟運)→10時ごろ米子→(徒歩30km・8時間)→夕刻根雨(現日野町)
2日目:朝出発→四十曲峠越え(徒歩23km)→夕刻美甘(この時代は既に馬車道になってたとは思うが、それでも峠越えで長い距離は歩けまい。峠道の途中で追い越していく馬車をうらやましく眺めていたかもしれない)
3日目:朝出発→勝山久世経由(徒歩26km)→午後半ば美作落合・翌朝の船を待つため泊(淀川などと違って流れ速く蛇行しており、夜間航行は無いと見た)
4日目:朝出発→(旭川舟運・60km)→午後半ば岡山着・泊
節約のために、岡山まで歩く事も考えられる。悪路はなさそうなので、3日目の宿泊を落合より南にすれば、4日目の夕方には着けるだろう。
5日目:朝汽船に乗船→瀬戸内海航路(120km・7hほどか)→夕神戸着
6日目:神戸から東京行き汽船に乗船→大阪寄港→船中泊
7日目:船中泊
8日目:→朝横浜着→汽車賃を節約して徒歩で東海道→夕東京着
1日余るが、特に前半行程は雨が降るだけでも行程が困難になるので、それで1日余計にかかったかと。
とはいえ、ドラマ制作側がそこまで深く考えているようには見えない。東海道線が全通してない、または全線乗り通すお金が無くて、後半はだいぶん歩きました、てな感じにしておこう。というノリかなあと思う。
その場合、9日の根拠は分からんが、ハーンの岡山→松江移動が人力車で4日かかってる(但し、津山・鳥取街道経由の遠回りである)事を参考に、前半の徒歩4日+船・汽車1日で行ける所まで行き+後半も徒歩4日=9日程度のノリで計算したのかな。
ところで、鳥取街道経由とはどのルートだろうか? 鳥取まで出たら260km、とても4日で走り切れない。「最も人の通らぬ」と言ってるから、倉吉経由なのか?それでも200kmだから、車夫はかなりの健脚である。
人件費の安い時代とはいえ、車夫を往復8日拘束し、その間の飲み食い宿代も持つ、となると今なら20万円くらいかかるだろう、タクシー旅行より高い。当時のドルに換算すると20ドル程度か。お雇い外国人だからこそ出来る贅沢だ。
お金のないおときは、人力車など雇えるわけがない。馬車は存在したはずだが、長距離だと貨物が中心で、乗合馬車はほぼ無かったようだ。あったとしても、おときの懐具合には合わなかったと思われる。
鳥取街道経由4日云々の部分は、小泉八雲全集第三巻 知られぬ日本の面影 の記述による。