Netflixで何度も見返していて。やはり一番胸にじーんと来るのは、イタチが穢土転生・解で昇天して行く際に、サスケにヨロヨロと近づいて、おでこにデコピンして、「許せサスケ!」ではなく、肩越しに腕を回して、額に額を付けて言った最後の言葉。

「俺は事ある毎にお前に嘘をつき遠ざけた。お前を巻き込みたくはなかったからだ。だが、今はこう思う。お前に真実を話し、同じ目線で向き合っていれば、お前が父や母を、一族の皆を変えることが出来たかもしれないと。」

「失敗した俺が今更上から何を言っても無駄かもしれないが、最後にこれだけは言っておきたかった。」

「この先、お前がどうなろうと、俺はお前をずっと愛している。」

穢土転生体からイタチの魂が透けて昇天する姿は、優しい兄の顔。

「兄さん…」


これは、ジャンプ連載時には、感じ取ることの出来ないインパクトを浴びる訳です。

紙面とは異なる、アニメーション、劇、声優さん、うちは一族惨殺の夜、イタチが最後に見せた一筋の雫。「見間違いかと思っていた。」、重要なシーンは状況に呼応して映し出される。

全てはこの最後の一瞬に向けて。

さらに、アニメの最後は番外編として、イタチ真伝として、イタチ目線で、イタチの心の内を総集編として、イタチの心の言葉を示していく。下手をすれば、蛇足になるかも?という議論もあったはず。

それらを全て乗り越え、最終的にNARUTOは結実、完成されたと思いました。

これ程泣いたのは巨人の星以来?

紙面とアニメ。ある意味、別物とも思える程、漫画とアニメによる人間劇は別分野の文芸作品であり、日本に限定されない世界を巻き込む普遍性を有していると感じます。


いやあ、ジャンプの時には、こんなに泣かないし、深く、全てを連携して捉えられないです。

全てが終わり、アニメとして新規作成したからこそ、全ての伏線を大切にして、その補足説明を細かく、繰り返して、印象づけていく。

これはアニメだからこそ可能な芸術の表現形式の1つと私は思うんです。


しかも、イタチ -- サスケの構図はそれ自体が全編の中のひとつのプロットであるだけでなく、「一族とはなんだ?里とは?忍びとは何なんだ?」のサスケの一言がNARUTOの基本テーマ、テーゼとして、視聴者確認を求められ、千手柱間、マダラ、六道仙人へと向かう。

最後に、NARUTO/サスケの対決で、サスケが「お前の事を認めちまった」と言う結論。

時代の差で展開され続けた、初代火影柱間/うちはマダラ、その原始である、ハゴロモ/ハムラ、アシュラ/インドラ、そして、マダラ達の次のNARUTO/サスケ。

三忍、うちはシスイ/イタチ、砂のサソリ/カンクロウ。

その他全てのプロットを構成し、それらの主人公約の人間性表現を細かく構成した群像劇。

これら全てを発散させずに、最後に収束させた本筋こそが、イタチの愛とナルトの愛であり、その中心に居るのは、うちはサスケとも思う。

やはり、「NARUTOの真の主人公はイタチ」?