「かくれたほうがいいかもしれない」、緑蛙はカウンターに跳ね上がり、裏の方に姿を消した。
もちろん人間の言葉を話せる蛙がいたら、ちょっとした騒ぎになる。喉飴が、そんな蛙を飼っていることを知っているのは、奥の部屋で寝ている里美とマネージャーの高草だけだ。NESTに来るまでも、緑蛙は喉飴のバッグに隠れてきた。
「突然、申し訳御座いません」、びしょ濡れの男が入ってきた。
「何か持ってきますから、ちょっと待っててください……あっ!」
「あっ!」、男は喉飴と同じリアクションを取った。その男は精治だった。昨日、スタジオで喉飴と交じり合った、若い青年である。
「喉飴さん、ここで何を?」
「えっと、このお店、私の友達がやってるんです。一緒に飲んでたんですが、友達は先に寝ちゃいまして」
「そうだったんですか」
「あっ、待っててくださいね」
雨足は衰えることを知らず、どんどん強くなっていた。
「里美、起きて」、喉飴は横になっている里美の体を揺らした。
「う、気持ち悪い」、里美は喉の奥からこみ上げてくる吐き気と格闘中だった。
「ねえねえ、何か着替えとかない?」
「もうそんな時間?」、里美はシルバーの腕時計を自分の顔に近づけた。しかし長針も短針も目に映ってないように、喉飴には見えた。
「違う、違うの。私のパジャマじゃなくて、着替えを。着替え、男性用の」
里美は状況が飲み込めていないようだが、口を抑えながら、もう片方の手でロッカーを指差した。
「こんなのしか無いのですが」、喉飴はバスタオルと従業員用の制服を持って戻ってきた。
「本当にすみません、喉飴さん」、精治は濡れた顔と頭を拭きながら、トイレの中に入っていった。
「喉飴は、ほれているかもしれない」、精治がトイレに入るのを見計らって、カウンター裏に隠れていた緑蛙が、カウンター上に姿を現した。
「いいから、声出さないでね」、喉飴は”しっし”という仕草で緑蛙に手を振った。
制服に着替えた精治は、水滴が滴る衣服を手に持ち、トイレから出てきた。
「何かあったんですか? こんな夜に、傘も差さないで」
精治は一呼吸間を置いて説明した。
「帰りの電車が止まってしまいまして、この天気ですから何かあったんでしょうね。歩いていたら、そこで傘が壊れてしまいまして」、喉飴は、映画の廃棄物の山から出てくる、羽が取れ骨組みだけ残った傘を思い浮かべた。「このお店を通り過ぎようとしたとき、光が付いていたものですから、ついつい」、精治は自分のちょっと前の行動を振り返るように、外を見つめた。
「何か飲みますか? そんな気分じゃないですか?」
「あっ、はい。頂きます」
喉飴はカウンターに移動して、棚に並んだアルコールを眺めた。
「喉飴は、キンチョウしているかもしれない」、カウンター裏に隠れていた緑蛙が、小声で囁いた。
「いいから、いいから。そのまま隠れててね」、人差し指を鼻に当てて”静かに”のポーズを作った。喉飴はそのまま。その手を自分の左胸に当てて、自分の心臓音を確認した。
「何か言いました?」、精治は頭を拭きながら、不思議そうな顔して喉飴を見ている。
「あ、えっと、何飲まれますか?」
「ああ、そうでしたね。ビールで!」
喉飴は、ビールサーバーにジョッキを置いてスイッチを押した。それは、レバーを押したり引いたりせずとも、ビールが七、泡が三の割合に注いでくれる、優れものの自動式だった。物臭な里美らしいといえばらしい、と喉飴は思った。
「お疲れ様です」、喉飴は”乾杯”ではなく”お疲れ様です”と言った。
「頂きます」、精治はジョッキを傾けて、一気に半分ほどまで飲み干した。
「改めまして、喉飴です」、喉飴は両手を膝に乗せて、小さくお辞儀した。
「は、はい。よく知っています」、精治は喉飴を習って、同じようにお辞儀した。
『……』
二人に一瞬の沈黙ができて、店内には小さいボリュームで音楽が流れていることに、喉飴は今さら気づいた。日本人女性シンガーが、洋楽のカバー曲をしっとり歌い上げている。シンガーの名前と曲のタイトルは思い出せなかった。
「喉飴さんと、スタジオ以外で会えるなんて、不思議です」、精治は照れ臭そうに頭を掻いた。
「私もスタッフさんと外で食事するのは初めてです」
「この辺に住まれてるんですか?」
「あ、いえ。家は横浜の方です。精治さんは?」
「私は、もう少し行ったところの鶴見駅の近くなんです」、精治はビールの残りを飲み干した。
「そっか、歩いてたんですもんね。ビールお替りしますか?」、精治の返事を聞く前に、喉飴は席を立ってカウンターに向かって歩いていった。
「何だか、本当に申し訳御座いません。もう一杯お願いします」
「いいんですよ。一人で飲んでても寂しいですから」
喉飴は新しいジョッキに、さっきと同じようにビールを注いだ。緑蛙が隠れている様が見える。頭隠して尻隠さず状態になっている。
今回は特に話しかけてこなかった。それはそれで気になる、そう喉飴は思った。
「喉飴さんは、何飲まれてるんですか?」
「えっと、何だっけな? わかんないんです。すっぱくて美味しい」
外が強烈な閃光を放ち、店が真っ暗になった。
「わっ」
「何? 停電?」、二人は体を静止させた。
「雷が落ちたみたいですね、近くに」、何故か精治は小声になっていた。
「どうしよう、ブレーカーの位置とかわからないや」
「ちょっとこのまま様子を見ましょうか」
二人は真っ暗になった店内で、ひっそりとしていた。しばらく時間が経過しても、電気の供給は回復しないようで、連続した雨音と時たま唸る雷だけが、二人に響いていた。雷が落ちる度に、その光で外が明るくなって、暗闇に二人のシルエットが映し出された。
白黒の世界。でもあの映画とは色々と様子が違う。少女は少年と再び会うことができた。雨は黒ではなく、白く光って見える。瓦礫の山から、精治君を見つけたのだろうか? いいえ、瓦礫なんて失礼だよね。と、喉飴は心の中でアレコレ考えた。
緑蛙の言うとおりかもしれない。私の心臓はあれから激しく脈打っている。雨が降っていなかったら、とっくに聞き取られてしまうかもしれない。そのくらい激しく鼓動を感じる。こんな感情は久しぶりだ。
「トイレにロウソクがあったかも!」、喉飴はそれを思い出して、手探りでトイレに向かう。しかし喉飴は、雨水で濡れた床に足を滑らせ転んでしまった。
「痛い」
「大丈夫ですか!」、精治が小走りで喉飴の元に寄ってきた。
「駄目、そこ濡れてるから、滑るよ」、と注意した時にはすでに遅く、精治も滑って、喉飴の体に覆いかぶさってきた。
「す、すみません。こんなつもりは」、精治は勢いよく喉飴の体から離れようとした。
喉飴は離れようとした、濡れて冷えた精治の体を掴み、自分の体に引き戻した。そんなつもりじゃないことなど、わかっていたからそうした。そんなつもりでもいい、そう喉飴は思った。
喉飴は、緑蛙の視線を感じながらも、昨日と同じように精治の上で腰を振った。今度は自分の意思で。