3月19日 午前12時15分(キー*さんが代理で発送)

 

 もうそろそろ「術後治療室」から「一般病棟」に移されるんじゃないかな。とおもいます去る前に、この部屋のことも書いておかなくちゃ。

 

 この部屋は、ナースステーションに隣接した特別病室で、定員は8人です。中には仕切りがあって、A,BC,DEFGHの3つの部屋のようにも見えます。

 

(地図画像)

 

 僕が、手術のあと、運び込まれたのは、上の図のEのベッドでした。ここで3日間過ごしたのち、15日の金曜日にFのベットに移されました。こちらは窓際ですから、目の前に大都会の風景がひろがりますし、第一、ラジオの感度がたいそうよくなりました。

 

 窓から見える風景で一番のポイントは、左手の中の郵便局です。これは15階建ての大マンションで、1~2階が郵便局、3~15階が(たぶん郵政省の職員の)住宅になっている大きなビルです。これの24時間の変化、雲の流れ、その向こうに見える中野サンプラザが雨の日にはきりにかくれたりして……。

 

 病室が変わると、この風景ともさよならです。

3月19日 午前12時13分 (キー*さんが代理で発送)

 

 3月18日月曜日の朝、ついに「お食事」が出ました。まるまる6日間も絶食したことになるではありませんか。人間歴60年にして、連続18食という、絶食期間の自己新記録を樹立したのであります。

 
 で、その文字通りの「ブレックファスト」のお献立です。

 スープ(味噌するの上澄み液か)・……………・・…150ml
 重湯(ストローを通る程度)・………………・……・150ml
 リンゴジュース………………………・・…………・150ml
 牛乳・………………………………………………・・150ml
 番茶………………………………・………………・・150ml

 

つまり、液体ばかりを8デシリットルも飲んだわけです。

 

 ちなみに、近県の方はまもなく満7日間になりますが、まだ継続中です。こちらは自己新記録をつくることなく終わるんじゃないかなと、おもっています。

3月19日 午前12時12分 (キー*さんが代理で発送)

 

 「術後治療室」二戻ったのは16時をすぎていたそうです。ボクは「痛いよう、痛い」と言い続けていたのだそうですが、まったく記憶にありません。人間、意識はなくてもこのくらいの発言はできるということです。

 

 看護婦さんに時刻をたずねたのが最初の記憶です。「いま何時ですか」「11時です」「午前?」「いいえ午後の」。あれまあまだ半日も経ってないの、こりゃまだ先が長いわい、とガッカリしたのをおぼえています。

 

 次も時刻をたずねた記憶です。「いま何時ですか」「2時です」「午後の?」「いいえ、午前2時です」。待てよ、さっきも同じ質門をしたよな、あれから3時間しかたってないのか、ガックリ。

 

 さあ、そこから眠れない、胸と腸のあたりが痛む。やれやれなんなんだよ、この痛みは。第一、この鼻から出ていつチューブは何なのだ、それにオチンチンにさってるチューブ、腕に刺さってる点滴チューブが多すぎるよ。

 

 鼻のチューブからは時々黒い液体がゴボゴボとてゆくし、看護婦さんがときどき来て、その流れを助けるらしいスカスカと言う音をさせてゆきます。オシッコハ自動的に採られているらしく、当方に排尿の意識などないのに、容器にどんどん溜まっていっているみたいです。

 

 午前7時ごろだったかな、「痛いですか?」「はあ、とっても」「まだ1日目ですからね、痛かったら痛み止めを出しますから、我慢しないで遠慮なくいってください」。さっそく、点滴に小さいパックが追加されました。てめ~~そーゆーことは早く言えっつてんだ、バーロー、俺のこの5時間の痛みは難だったんだ、と呪っているうちに、早くもオクスリガ効いてきてウトウトとしうてくるのでありました。

3月19日 午前12時10分  (キー*さんが代理で発送)

 

 手術当日は、11時に家族に来てもらって衣類や荷物をまとめてもらいました。何しろストレッチャーに乗って病室を出たら、戻るのはこの病室ではないからです。

 

 正午までに最後の排便に行って、ストレッチャーに横たわると、予備麻酔と思しきお注射を打たれて、エレベーターに向かいます。意外と速いスピード。(整形の患者と衝突したらどうするんじゃ、もっとゆっくり行け!)

 

 2回の手術室に入ると、そこは映画などでおなじみの風景でして、天井に何基かの無影灯、ブルーの衣装、お帽子、マスク、ゴム手袋の男女6~7人といったところですが、映画と違うのはカメラアングルです。こちらは終始、仰向けに横になった患者の始点だけで描写される映像です。主役は「執刀の先生」ですが、まだ舞台には見当たりません。

 

 やけに寒い、病室は暖かいものだから、ご指定の衣装「和風のネマキ1枚だけ、肌着無用」でもよかったのですが、手術室はナマモノを扱う仕事場だけに、冷房しているみたいです。

 

 もうひとりの主役「麻酔の先生」が搭乗。一応患者に自己紹介があって、「ではこれから……」とかいって、右手は血圧や脈拍のキカイに結ばれ、鼻口には酸素らしきガス、左手にお注射を打たれたな、というのが最後の記憶です。

3月19日 午前12時02分  (キー*さんが代理で発送)

 

 いま3月17日の日曜日の午前11時です。手術が火曜日の午後でしたから、ほぼ5日たたったことになります。5日目にしてはじめてパソコンのふたを開けるだけの気力が出てきたというわけです。

 

 まだ「術後治療室」なるところにて、一般病室には戻してもらえずにいます。食事もまだです。予定では、いくつかのチェックに合格すれば、月曜日の昼食から流動食が出ることになっています。

 

 月曜日の夜以降、水一滴さえもこちをとおっていません24時間ノンストップで点滴が流れていますが「輸液用電解質液」って奴で、ブドウ糖……7.5W/V%, L-乳酸ナトリウム……0.22W/V%塩化カリウム0.149W/V%、塩化ナトリウム……0.09W/V%、と書いてあります。500mlのパックを、1日4本かな、もうちょっと多いかな、いや、いま看護婦さんに確認したら4本だそうです。

 

 これは目に見えてやせます、ダイエットなんてもんじゃない、筋肉が毎日失われてゆくのがわかります。

3月12日 午後11時44分  長男 舞 浜人のメッセージ

 

 12日無事に、高知医科大学・免疫学研究室に父の臓器の一部を届けることが出来ました。

 

 その日の午後から手術は始まり、途中状況を把握してもらうために私が手術室に呼ばれて担当医師のI先生から収容の様子を教えてもらったのですが、腹を切られた姿を見た私は・・・・・・.

(……すいません、急に言葉が出てこなくなりました.表際はまた改めて…)

 

 さて13時半に助手から容器をが手渡され、大急ぎで羽田空港へ向かい、17時発の全日空航空567便で、高知へ飛びました。

 

 高知空港に着陸する直前、キャビンアテンダントに事情を説明し、一番初めに降ろしてもらい、廊下を約2分でダッシュし、タクシーに飛び乗り、めでたく高知医大に到着しました。

 

 研究室では、教授のH先生が出迎え、早速検査に取り掛かり、私の任務は、無事終了しました。

 

 自宅へ電話をしましたが、父は現在麻酔が残っているものの、至って元気だそうなので安心しました。

 

 なお結果については、約一週間後に主治医に知らせる予定だそうです。

 

 明日は、気分転換のために高知市内を歩き、東京へ帰ろうと思います。

3月12日 午前11時4分  長男 舞 浜人のメッセージ

 

 皆さんからのメッセージ、息子である私からも、厚くお礼申し上げます。

 

 正直言って、気持ちは大変複雑です。おとん・・・・・・、いや父本人は必ず治すと言っていましたが・・・・・・。ま、でも10日の父の姿を見ると、いつもとかわららずごく普通に過ごしていました。大丈夫でしょう、きっと・・・・・・。

 

 前述の通り、12日に高知医科大学へ、父と家族みんなの願いを込めて届けに参ります。いつまでもくよくよする訳にもいきません。父の未来のために、責任もって届けて来ようとおもいます。

3月10日 午後10時34分

 

 みなさま、お見舞いありがとうございます。

 

 きのうと今日は、手術後の仮保釈で、自宅に戻っていましたもので、こういうノートもかけましたが、明日、朝病院に戻り、またしばらくは書き込みが出来なくなります。

 

 この後のレポートは退インドに書くつもりですが、あさって高知に飛ぶ長男が少しは書いてくれるかと期待しています。

 

 で、ベースノートに「ガンであると仮定して対処すべき」などと書きましたが、ボク自身の感触でいえば、ガンでない確率の方がずっと大きいとおもっています。根拠はと言われると困るんですが、まあ顔色もやつれてないし(笑)。

 

 というわけで、しばらくご無沙汰いたします。ごきげんよう。

3月10日 午後12時54分

 

 親友と言うのはありがたいもので、中学で同窓だった医師が、最近注目されている患者本人の組織を培養して使うガンの免疫療法についての情報を、その夜のうちに集めてくれました。すでにたくさんの大学で実用段階に入りつつあるかとかがわかりましたが、今一番組織的に活動しているのは高知医科大学の免疫学教室だということがわかり、教授の行き先をたどって電話で追い、ついに手筈を調えてくれました。

 

 この療法には、患者本人の新鮮な腫瘍(まだ壊死していない活性の腫瘍)と新鮮なリンパ球が必要です。それを培養して患者の体内に戻してやることでガンに対抗しようというものです。手術を担当するボクの病院の外科部長に、この話をすると、その治療は自分にとっては本意ではない、まだひろく認められた治療法ではなく、よくある「雑音」のひとつにすぎないと思うからだが、患者ご本人のたってのご希望とあれば、ご協力することにはやぶさかではないから手配をすすめてくださってけっこうです、というへんじでした。実は、ボクの知人にも、外国でこの治療を受けいまは健康にすごしている男性がいて、ガセネタではなさそうだという感触があります。作戦にゴーサインを出しました。

 

 問題は、高知県の南国市の大学と、東京中野区で行われるボクの手術を、どうやって短時間で結ぶかという当面のハードルです。

手術は火曜日の午後です。それまでに高知から容器が届いていなければなりません。月曜の朝一番で宅配便を発送しても間に合う確立は不十分です。高知まで容器を取りに行くという作戦を見当しました。しかし、これは先方の教室が、容器を日通航空貨物会社のチャーター貨物で送れば十分な確率で届くことがわかりました。

 

 かえってむつかしいのは、返送の方でした。教授の要求はその日のうちに教室の保存設備に入ることが絶対条件だといいます。チャーター貨物の羽田の締め切りは16時30分です。中野と羽田の距離、病院側がさいて乗り気でないと言うことを考えるとかなりヤバイ状況です。

 

 そこで、ボクの長男が容器を抱いて高知へ飛ぶ(こと)にしました。羽田→高知の最終フライトは18時40分です。搭乗手続きなどの時間を差し引いても、これで1時間半くらい稼げます。早速往復の航空券と当夜のホテルを予約し、次男が航空券の引取りをかねて中野→羽田の時間測定のリハーサルに出かけました。

3月9日 午後8時12分(2)

 

 3月8日金曜日、今夜心眼の報告をするから、家族を呼ぶようにとのことで、カミサンに来てもらって外科部長の話を聞きました。

 

 病名は腸間膜(腸官膜かな?)の腫瘍なんだそうです。これはCTスキャンで発見したが、念のため、血管造影で確認したとのことで、それぞれのフィルムを見せてもらいました。腫瘍はかなり大きく手術で摘出することの出来ない大きさなのだそうです。放射線治療は腸の場合は副作用のリスクが高く、化学療法に頼らざるをえないとのことでした。

 

 それにつけても、腫瘍の種類(肉腫、脂肪腫、リンパ腫、悪性、良性など)がわからないと、クスリをきめることもできないから、腫瘍の実物のサンプルがほしい、つまり試験開腹のオペを12日火曜日にしたい、ということでした。「考えさせてください」と、即答を避けました。

 

 その夜のうちに、知り合いの数人の医師(超大御所医師を含む)に電話で相談した結果、とりあえず、火曜日のオペは受けることにしました。