トムは真夜中の庭で

フィリパ・ピアス 著
岩波少年文庫



古い大時計が真夜中に13時を打つとき、トムは不思議な美しい庭園を見つけ、少女と出会う。


こんなにも面白い素晴らしい児童文学を、子どもの頃に読んでいなかったなんて!
ドキドキして、心が躍り、せつなくなり、私も少年少女の時に戻ったかのようだ。


子どもたちにはぜひ読んでほしい。
でも大人たちにも読んでもらいたい。
大切な出会いと別れを経験した、もしくは想像できるようになった、今だからなおのこと心に深く共鳴するものがある。

ハティに出会えてよかった。
トムに出会えてよかった。

*

緑のカバーは、この夏の岩波少年文庫フェアの限定カバーです🌿
限定、どの作品のも素敵で全部ほしくなって困ってしまった。
散々迷って、何冊か購入しました。


昨日の朝、この本を読み終え。
子どものように泣きじゃくった。
本を読んでこんなにわんわんと泣いたのは久しぶり。

赤い目と鼻をしていたら、早起きの息子がリビングに降りてきたので、涙をぬぐって何事もなかったかのようにおはようを言った。

いつか彼も書棚からこの緑の本を、好奇心と共に手に取ってくれたならいい。


夜とひるとのあいだには、自然が眠っている時間がある。その時間を見ることができるのは、早おきの人たちか、夜どおし旅をつづける人たちだけだ。夜汽車で旅する人が、じぶんの車室のブラインドをあげて、そとを眺めていると、シーンとしずまりかえった風景があとへあとへと流れさっていくのを見るだろう。木々も茂みも草もみな眠りにつつまれ、息をとめて微動さえせずに立っている。そのときの自然は、眠りにつつまれているのだ。ちょうど、旅人がゆうべ寝るまえに、じぶんのからだを外套やひざかけ毛布でつつんだように。
(63ページ)

好きな描写。うつくしい。

木々も、人も、時間の中を旅をする。
夜からひるへ、また夜へ。



エリザベートの感想の続きです。


フランツ。
万里生くんの、ひたすらに愚直に心からシシィを愛し続けるフランツがとても好き。

万里生くんの演技もまた、花總さんのそれと同じく、時の流れの容赦なさを如実に感じさせる。
出会ったときのシシィとフランツから、時代の流れと環境に合わせ、二人ともどれだけ変わらざるをえなかったか。
ただ、変わらなかったものがある。
シシィの「私」と、フランツのシシィへの愛。


「夜のボート」でのフランツ、歌いながら何度か鼻をすすっていた?
私自身、溢れる涙やら何やらと戦っていたので、定かではないのですが。
シシィへの想い、それをわかっているけれど、「無理よ」と言うシシィ。
美しすぎる悲しい二人のハーモニー。
それぞれへのゴールへ向かう、流されていく、二人。


そして芳雄さんのトート。
全てが素晴らしいけれど、この日は「愛と死の輪舞」が特に心に響いた。
情感たっぷりに歌い上げ劇場中に響かせて、歌声はまるで淡く七色に光り輝いているのが見えるかのようだった。

トートが生き生きとしている、とすら感じた。
「死」である存在が生き生きだなんて、変なものだ。
でもシシィと出会い、彼の中にそれまでに存在しなかった感情が芽生えた。
自身の存在と矛盾する感情が。
愛、それは生だ。

「人の命を奪って弄ぶ」帝王が、シシィの命を助けた。
生きたシシィに愛されたい、そのために。
シシィと出会い、恋に落ち、それまでとは違う自分がいる。
シシィがトートを変えたのだ。

これはトートからシシィへの熱烈で痛切なラブソングでもあり、その想いが痛いくらいに伝わってきて、トートの感情の青白い炎に飲み込まれ包まれるようでもある。


そんなトートが最後に彼女を手に入れた瞬間。
この日は花シシィからの情熱的とすら言えるキスを受け、一瞬トートの身体が固まり。
口づけを交わし、あんなにも愛していた生きたシシィを永遠に失ったことに気付いた、トートの表情。
そこには、ただ、喪失だけが表れていた。

「死なせて」と懇願しながらも、自分を支え、必死に生き抜いた、「私」を貫き通したシシィ。
その彼女が本来の私、少女の頃のシシィに戻ったかのようにも見え。
安らかな表情の神々しいシシィと、トートの哀しいコントラスト。そして暗転。



いろいろな方の感想を読ませていただいて、同じように感じている人がいる、とうれしくなったり、こんな見方・解釈があるのか、と目から鱗のように感じたり、まさしくその通りだ、と納得したりしている。
そんな中で、この後彼はどうなったのだろう、と私もふと考えたりする。

愛は黄泉の帝王を変えてしまった。
また元のトートへ戻れるのだろうか?
そうは思えない。
シシィへの愛は、激しく彼の身体に刻まれたのだ。決して消えない傷跡を作り。

トートは滅してしまうのかもしれない、と思ったりもする。
近代・現代ではトート閣下は必要とされないだろう、人の命を奪って弄ぶ役目は人間自身が立派に引き継いだから、と考えたりもする。
そもそも彼は誰かの何かの投影で、「存在」しなかったのだ、と考えることもできる。

芳雄さんがカーテンコールで話していたように、見た人の数だけ、感想や解釈が生まれる作品、その数だけ、心に少しずつ違った何か、でも尊い何かを残す作品なのだろう。


私は初めて見た時から、この「エリザベート」が大好きで、いつも心を激しく動かされる。
歴史上の人物じゃない、お話の中のキャラクターじゃない、一人ひとりが目前で必死に生きて、愛して、求めている。
手に入れても、失っても。
本物の愛は、見えない何かを湿った傷口にそっと残すのだ。

シシィの、トートの、フランツの、美しく鳴り響く歌声が感情を語りすぎるくらいに語る。
こらからも、語り続けてほしい。


千穐楽。
「エリザベート」観劇してきました。
まさかこの日のチケットが取れるとは思っていなかったので、とてもうれしかったです。
前夜、当日とブルーベリーのサプリメントを摂取して挑みました。


芳雄トート、7/6の貸切公演以来だったので、会えない時間がすごく長く感じました…。
やっと!会えた!!でももう楽日!ぐすん


とにかく最高でした。
役者のみなさんの熱量がさらに大きく。
持てる最高のものを見せたいという思いをひしひしと感じました。


育三郎くんルキーニ。
伸び伸びと、とても楽しそうに演じていて。
アドリブで皆を沸かせ、ロングトーンで魅せてくれ、でもひっそりと世界に馴染み。
そして徐々に、物語と高まりと同調するかのように、いや狂気じみていくルキーニの高ぶりに彼の語る物語が同調するのか、感情のるつぼに見る者を巻き込む。

雑誌のインタビューでいっくんが、ルキーニは本物の愛を求めている、というようなことを語っているのを読んで、彼の演じるルキーニ像がよりわかるようになりました。

作中でルキーニは、本物なんてない、と言う。
全て偽物だと言う。
そうかもしれない。
でも、もし全てがルキーニの妄想の産物だったとしても、真実の愛はそこに確かにあった。

強くトートに陶酔していたルキーニ。
トートに自分を重ね、託していたのか。
彼は最後に何を思ったのか。



花總さんシシィ。大好き。
この日のシシィの感情の高ぶりが凄まじく。
心が折れる葬儀の場面なんて、言葉にならない。

ここは牢獄、とシシィは言う。
精神病院に閉じ込められている患者に、あなたの方が自由、とシシィは言う。
ヨーロッパ中を旅をしても、彼女は檻から出られなかった。
自由を求め、死を求め、自分自身へ還ることを求め。


凛として気高く、美しいシシィ。
でも強いわけじゃない。
弱い心を抱えながら、悲しみを背負いながら、強くあろうと、必死に「私」を保とうとするシシィにいつも心を動かされる。

カーテンコールでの花總さんの挨拶を聞いて、彼女自身への役への対峙の仕方が、そのままシシィとして現れていると感じました。
不安の中で、苦しみながら、あの素晴らしいシシィを生み出してくれた。

ただただ、ありがとうの思いです。
本当にお疲れさまでした。
また花總さんのシシィに、会いたい。会えると信じて。