エリザベート!

今回は二度観に行くことができました。
まとまりがないですが、感想をつらつらと。



my初日は、7月6日マチネ。芳雄さんFC貸切公演の2日目でした。
2015年から更にパワーアップし深化を遂げている芳雄さんのトートに終始圧倒されっぱなしでした。

前回、城田くんトートと観比べたときには、城田トートは「北風と太陽」でいえば北風アプローチ、比べると芳雄さんは太陽アプローチのトートだなと感じていたのですが(城田トートが恐ろしすぎて…)、今回観てみると、太陽なんて、とんでもない…。
黄泉の帝王、そのもの。

深みと艶感を増した歌声。
劇場中、空間中に高らかに、妖しく響き渡り、強大な力で包み込み巻き込み、支配し酔わせつつ、自らの想いを吐露する歌声。
永遠に聴いていたくなるほど。

トートの一挙手一投足から、彼の思いが伝わってくるように目に映る。
最後の最後の表情が…悲しい。
自分に還ることのできた花總シシィと対象的な表情。
どちらも悲しい。
失って、得る。得て、そして失う。

そうするしか、そうなるしかなかったこと。
でも生き抜いた、やり抜いたこと。


花總シシィも美しすぎて…。
気品溢れ見目麗しい、そして内面の心の強さ、いや強くあろうとする心が、そのまま姿となり表れている。

花總さんも、お芝居も歌も更に素晴らしくなっていた。
どこまで自分に厳しい方々なのだろうと思う。
エリザを初めて観た2015年の時は、何をしてもこのお二人の組み合わせで希望日のチケットが取れなかったので、やっと観ることができ感無量でした。


そして成河さんのルキーニ、初めて。
すごい役者だ、と。
彼がいると、舞台が、「ミュージカル」だけでなく「演劇」の要素が色濃く加わるように感じます。
つい目が離せない、注目してしまう、舞台を密かに誘導しているかのような、まるで影の主役のような。
でも決してやり過ぎない、出過ぎない、絶妙なバランス。

ミュージカルはもちろんのこと、いつか成河さんのストレートプレイも観てみたくなりました。


一番最後、解放されたエリザベート、呆然と立ち尽くすトート、その同一線上に、首を吊って絶命するルキーニが存在する、その絵面の印象が強烈。

ルキーニは、この作品においてどんな役割だったのか、はたまたこの「エリザベート」とは、私が観るたびに心震わされ大号泣しているこの作品とは、一体何なのか?
生とは、死とは、存在とは…とエンドレスに深く考えさせられることとなりました。

その後観た育三郎くんのルキーニと比べると、双方ともエリザベートの世界の外側に足を置いていること自体は同じでも、成河さんは舞台を引っ掻きまわし、露わにし、何かをこちらへ投げかけるかのようなルキーニ。
育三郎くんは舞台に寄り添い、馴染もうとし、それによってこの(エリザベートの)世界を浮き上がらせるかのようなルキーニ。
違いが面白い。

(ただ、終盤の育三郎ルキーニのターボが効いてきた暴走感が表しているものが、まだ整理できていないので、次回じっくりと観てみたいです)
(あと、今年は育三郎ルキーニは古川くんトートで観たので、また違うのかもしれないけれど…)

観劇中は目がいくつあっても足りないし(それなのに一組しかない!)、チケットも足りないけど、あと一回だけ芳雄トートを観に行けるので、楽しみで楽しみで楽しみでなりませんピンク薔薇
最後の瞬間のすごく大きな変化

 グレイス・ペイリー 著
村上春樹 訳



以前に「MONKEY」で短編を読んで以来、ずっと気になっていた、グレイス・ペイリーの短編集。


読むと心に遠慮なく何かが刺さってくる。
比喩でなくて、物理的に。
心を打たれもする。
「刺さる」、「打たれる」って、何だろう、と思う。

私は特にフェイスという女性を描いた話が好きで。
小さな二人の男の子を持つフェイス。
夫と離婚したフェイス。
中年になり、子供は自分より背が高くなり、でも何かを求め探し続けているかのようなフェイス。

ペイリーの紡ぐ物語を読んでいると、わかる、と感じることがある。
でも、お前なんかに何がわかるのか? 本当にわかっているのか? 彼らの心をわかってなどいないだろう、と自分の中で囁く者もいる。
「わかる」って、何だ。

理解、共感、共有。
全てがぴたりと自分と誰かで一致するなど有り得ない。
全てなど、求めていない。

ひとつでも、ひとかけらでも、あぁ、わかるよ、と思う。
彼女の心を構成している部品群のうちのパーツXは、私の中にもひとつあるよ、と思う。
よく働き摩耗してきた歯車の層の奥に隠してあるんだ。


「人生なんてろくでもないものよ、エレン」と私は言った。「安っぽい毎日、安っぽい男たち。金もなくて年じゅうぴいぴい言って、家はゴキブリだらけ、日曜日には子どもたちをセントラル・パークに連れていって小汚い池でボートを漕ぐだけ。こんな人生何が惜しいのよ、エレン。あと二年生きて子どもたちやらこのごみため状態がどうなっているのか見てごらんなさいよ、きっと世界じゅうのチーズの穴がぼうぼうと火を吹いて燃えあがっているわよ」
「そういうの見たいのよ、ちゃんと」
 血がごぼっと出て、頭がくらくらした。
(「生きること」 P.97)


解説で村上春樹が、ペイリーの物語と文体について、こんな魅力を語っている。
これが言い得て妙にもほどがある。

「ごつごつとしながらも流麗、ぶっきらぼうだが親切、戦闘的にして人情溢れ、即物的にして耽美的、庶民的にして高踏的、わけはわからないけどよくわかる、男なんてクソくらえだけど大好き、というどこをとっても二律背反的に難儀なその文体が、逆にいとおしくてたまらなくなってしまうのである。」
(解説 P.308)

そう、いとおしいのだ。
一人ひとりの、生きている、あなたが。
そしてきっと、私も。


風にのってきたメアリー・ポピンズ

P.L.トラヴァース 著
林容吉 訳
岩波少年文庫

子どもの頃大好きだったメアリー・ポピンズ。
シリーズの四作を何度図書館で借りて、何度読み返したかわからない。

本好きの小ニの娘が、そう遠くないうちに読むようになるだろうと、ついにあの頃の宝物を迎え入れることにした。
なんてことはない、ただ単に読みたかったのだ、私が。会いたかったのだ、メアリーに。


懐かしい!
一つ一つのエピソード、個性豊かな人や動物たち、おいしそうなお茶のお供。
あの頃と何も変わっていない、彼女も、私も。
にこっとしてしまう。

「知らないんですか?」と、あわれむようにいいました。
「だれにだって、じぶんだけのおとぎの国があるんですよ!」 
(44ページ)

大好きだった、お話たち。
過去形じゃない、今も大好き。
でも当時はこんなにも、言葉が深く心に届いただろうか。


やってきたメアリー・ポピンズが、空っぽのじゅうたん製のバッグの中から、真っ白のエプロンやせっけんや歯ブラシや、寝間着を十一枚や、折りたたみ式のいすやキャンプ用寝台や、飲む人によって味の変わる不思議なびん入りのお薬を取り出すシーンにわくわくしたこと。


メアリーの外出日のエピソードで、マッチ売りのバートが道路に描く数々の美しい絵。
その絵の中で過ごす、二人の午後のお茶の時間が好きだったこと。
お茶のテーブルの山盛りの木イチゴ・ジャムのケーキと、からつきのニシ貝(金のようじ付き)。


訪問先の家では、笑いガスで空中に浮かび上がってのお茶会。

空から落ちた星をさがし続ける、踊る赤牛のエピソード。

ジンジャー・パンの飾りの金色の紙の星。
夜空を飾る星。


風やムクドリと会話をする、双子の赤ちゃんの「ジョンとバーバラの物語」には、どうしてもせつなくならざるを得ない。
そう、あの頃にも、この気持ちになった。
もう風の言葉がわからなくなった子どもの私。


動物たちが騒ぎ楽しみ、人間が檻の中で見物される、満月の夜の動物園。
キング・コブラの言葉。


「たべることも、たべられることも、しょせん、おなじことであるかもしれない。わたくしの分別では、そのように思われるのです。わたくしどもは、すべて、おなじものでつくられているのです。いいですか、わたくしたちは、ジャングルで、あなたがたは、町で、できていてもですよ。おなじ物質が、わたくしどもをつくりあげているのです――頭のうえの木も、足のしたの石も、鳥も、けものも、星も、わたくしたちはみんな、かわりはないのです。すべて、おなじところにむかって、動いているのです。(後略)」
(242,243ページ)


いま読むと、なんでかわからないけど泣きそうになる。
その言葉の重みがそうさせる。
木も石も鳥もけものも星も、子どもも大人もメアリー・ポピンズも、みんな同じものでできている。


メアリーは、著者は、何かと何かの間に境界などないことを教えてくれる。
不思議と当たり前のあいだ。
想像力と知識のあいだ。
誰かの心と違う誰かの心のあいだ。

境い目なんてやすやすと飛び越えればよいのだ。
彼女がするように。
風の吹くまま。
ぴんと伸ばした腕で、お気に入りの傘の柄をつかんで。