10月23日

 

ある人に、「食べれるならなんでも食べたほうがいいのに。自分はアレルギーで食べられないものだらけ」みたいなことを言われた。

ううん…放っといてくれないかな?と思った。

私が食べないものを増やした理由は山盛りありますが。

その前にまずアレルギー。食べられないものがあるのは私もだし。

後天性のアレルギーはほぼすべてメンタルが原因と言われていますが、これに賛同します。つまり自分でやらかしてるんだからね。私のアレルギーはそうですよ。

「もったいないから出されたものはすべて食べなさい」

これが純粋に、食べる人の健康を思いやった発言でしょうか?

そこ、人にこの台詞を言うときはしっかりと責任を持って欲しいくらい。

まず、食べきれない量を食べたら体に悪いでしょうどう考えても。

その量はその人の体質と体調とその日の消化力によっても全然違うでしょう。

そしてその「すべて」とやらは本当に体に悪くないのか?

強制されて食べることがどれだけ消化を悪くするか、分かってる?

飢えてる云々も、目の前の食べ物と自分とは無関係でしょうし。それを言うならそれにふさわしい行動ができるよねえ。

 

体に合う食生活を一回本気で体験して、本当に体調が良くなり、集中力が増して、そこを知れば極力戻りたくないと思ったの、と説明するんだけど。

自分がいかに食べたい物を食べられないかを言われてもなあ、ちょっと関係ないんじゃ、なんて思った。でもその場でそれは言えなかったから(相手のことを好きだし、一生懸命言ってくれてるところを汲むという、私のつまんない共感力が発揮された)、ここで吐き出してしまうわけ。気持ちをためたのは失敗。

 

本気で体に良いものを食べようと思うと、もう外食はできないんだな。

だから自分でできることは、「感謝して食べる」ことだけ。

 

10月24日

親を選ぶってやつ、たいていの場合は解消したいカルマを持ってその親を選んで生まれるのだそうで。

人の心の中のぐしゃぐしゃは、誰でも持っているものだけど、幼児体験でぐしゃぐしゃがたまっていくみたい。いろいろな症例を見ていても実感できるし、自分を振り返ってみるとまさにそれ。そのパターンをずっと大人になっても繰り返す。他人を見ていれば一目瞭然なのに、自分のこととなると、とんと皆目見当もつかない。そんなもんらしい。私、そこは気づきたいです。

 

友人Zに対して(多分)私は「ただ話を聞く」がきっと出来ていない。大昔の先輩後輩という力関係のせいで、どうしても「ああすればよろしいのだ」と差し出がましいことを言う。本当、どうしようもないわな。「ただ聞いてあげるだけの方がその人のためになることも多いのよ」って言われるんだよ。わかってるの。でも、言っちゃう。これは(何度目の決意かわからないけど)直そう…。

 

食べ物に気を使い、朝は瞑想やら呼吸やら朝練やらをやって、何が目的?っていうと、単純に自分に出会いたいからです。やればやるほど知らなかった自分の面白いところが見えてくる。この出会いは思ってたよりずっと、すごい。そういう自分の方が世の中の役にも立てると思う。動機って言えばそれくらい。

 

「そんなふうにあなたが失うことを必要以上に怖がる人になってしまったことも、またあなたが望みの人生を得るために乗り越えるべきトラウマのひとつなんですよ。」

 

吉本ばなな「吹上奇譚 第一話 ミミとこだち」幻冬舎