ヤクルトスワローズ

 ユニフォームギャラリーシリーズ#15


 最近バタバタしている感がありますが、投稿しないと段々遠ざかりそうで怖い「プロ野球ユニフォームギャラリー」。第15回目はヤクルトスワローズスワローズ念願の初優勝に貢献した選手達」取り上げます。


 球団創設29年目を迎えた1978年に初のリーグ優勝を達成しました。初優勝だけでなく、その勢いで阪急ブレーブスとの日本シリーズで4勝3敗で日本一になりました。

 最初から勝っていたわけではありません。シーズン序盤は負け越してましたが、前年2位で終えたことが自信になり、徐々に勝ち出し、読売ジャイアンツ、横浜大洋ホエールズとの首位争いが繰り広げられました。優勝へのターニングポイントになったのは、8月26日からの読売ジャイアンツ戦でした。正念場の3連戦を2勝1引き分けで勝ち越して優勝へと突き進みました。さらに、杉浦亨選手の活躍で9月20日から3試合連続でサヨナラ勝ちを記録するなど優勝する時には必ず幸運な出来事が起こるものです。10月4日に念願の初優勝が決まりました。ヤクルトスワローズにとって初めての日本シリーズは、ここでは詳しく触れませんが、第7戦の阪急ブレーブス・上田利治監督の1時間19分の猛抗議や第4戦のデーブ・ヒルトン選手の逆転ホームランなど、球史に残る日本シリーズでした。


 打撃陣ではデーブ・ヒルトン選手、船田和英選手(または角富士夫選手)、若松勉選手、大杉勝男選手、チャーリー・マニエル選手、杉浦亨選手、大矢明彦選手、水谷新太郎選手(または永尾泰憲選手)と続く打線が上手く機能してました。そんな中でも若松勉選手は120試合、打率.341、17本塁打、71打点を記録しMVPを獲得しました。大杉勝男選手は125試合、打率.327、30本塁打、97打点を、チャーリー・マニエル選手は127試合、打率.312、39本塁打、103打点を、デーブ・ヒルトン選手は128試合、打率.317、19本塁打、76打点を記録しました。他、上記の選手に杉浦亨選手、大矢明彦選手を含めて規定打席に6人を輩出し、3割打者を4人輩出しました。さらに代打には伊勢孝夫選手が控えてました。チーム打撃成績は広島東洋カープには及びませんでしたが、ホームランに頼らない、得点力の高いつながりのある打線でした。ただ、シーズン完封負けが無い記録達成がかかったシーズン最終戦で広島東洋カープの大野豊選手に完封負けを喰らいました。


 投手陣では、松岡弘選手が沢村賞を獲得し、43試合16勝11敗2セーブ防御率3.75を、安田猛選手が47試合15勝10敗4セーブ防御率3.93を、鈴木康二朗選手が最高勝率のタイトルを獲得し、37試合13勝3敗1セーブ防御率4.11を記録しました。先発投手はこの3人を軸に、会田照夫選手や梶間健一選手などで回転してました。抑えの井原慎一郎選手が58試合10勝4敗4セーブ防御率3.38を記録しました。また、中継ぎの倉田誠選手、小林国男選手がシブイ働きをしてました。しかし、チーム防御率が4.38と投手陣はそれほど強力ではなく打線に支えられた初優勝だったことがお分かりいただけると思います。


 しかし、1980年に2位を記録したのを最後にスワローズは低迷期に入ります。それだけに広岡達朗監督の手腕が素晴らしかったことがよくわかります。この初優勝は広岡達朗監督の手腕だけではない、選手一人ひとりが優勝の美酒を味わいたいが為に汗水たらして頑張った結晶だったと思います。


 また、こちらにこのユニフォームを語った、『ヤクルトスワローズのユニフォームを語る②』を載せておきます。こちらも御覧くださいませ。


 監督と作戦兼バッテリーコーチ

左から71広岡達朗監督、72森昌彦作戦兼任バッテリーコーチ

 打撃陣

3デーブ・ヒルトン選手
25船田和英選手。
1若松勉選手。
8大杉勝男選手。
4チャーリー・マニエル選手。
9杉浦亨選手。
27大矢明彦選手。
40水谷新太郎選手。

 投手陣

17松岡弘選手。
22安田猛選手。

21鈴木康二朗選手。