近鉄バファローズ
ユニフォームギャラリーシリーズ#14
再開したところ想像以上のアクセス数を記録しました。いつもありがとうございます『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第14回目は近鉄バファローズ「初優勝がすぐ目の前にあった時期の猛牛軍団」を取り上げます。
西本幸雄氏が監督に就任したのが1974年でした。この時、後に近鉄バファローズのシンボルになる赤袖のユニフォームが誕生しました。赤袖のユニフォームでリーグ優勝が3回、いくつかのマイナーチェンジを経て1996年までの23シーズン着用することになりました。今回のユニフォームギャラリーでは、赤のBマークの濃紺地の赤ツバ帽子、1976年頃に採用された猛牛マークのヘルメットの時代をみていきます。
このユニフォームの前は、高校野球風のシンプルなユニフォームでした。この時代の近鉄バファローズは、四番に土井正博選手、酒仙打者・永淵洋三選手、巧打を誇った小川亨選手が打線の主軸を担ってました。鈴木啓示選手、神部年男選手、清俊彦選手、佐々木宏一郎選手、板東里視選手などといった充実した投手陣がチームを支えてました。投手陣の好調があり、1969年と1972年は2位とAクラスに居座った時期もありました。
西本幸雄監督就任後は、投手陣では太田幸司選手をはじめ、井本隆選手、柳田豊選手あたりの若手が台頭し、野手では石渡茂選手、佐々木恭介選手、梨田昌孝選手、平野光泰選手、羽田耕一選手、栗橋茂選手などの若手が台頭しました。彼らは後々1979年、1980年にホームラン数を更新するなど猛威を奮った「いてまえ打線」を支えるようになります。さらに、主力投手では鈴木啓示選手、神部年男選手は活躍してましたが、清俊彦選手や佐々木宏一郎選手といったベテラン選手がチームを去りました。野手でも土井正博選手、永淵洋三選手がチームを去りましたが、上記の若手だけではなくクラレンス・ジョーンズ選手が打線を引っ張り、小川亨選手などの中堅選手も躍動してました。
ここで「近鉄バファローズのユニフォームを語る①」で触れなかった事柄をここで話します。1977年6月5日から背番号の上に背ネーム表記が入るようになりましたが、バディ・ブラッドフォード選手は姓の「BRADFORD」を希望していたのに、愛称の「BUDDY」と表記されていたため球団と揉めました。結局、当日は背ネームを剥がして試合に出場しました。バディ・ブラッドフォード選手は上記のエピソードを思い出にシーズン途中で退団し引退することになりました。
投手王国からいてまえ打線への過渡期にいた時期でしたが、実は1975年後期に半期優勝を経験してます。通年でも勝率はリーグ1位でした。プレーオフで阪急ブレーブスに敗れました。もしプレーオフで勝っていたら、ナイター照明がなかった時代の藤井寺球場で日本シリーズが開催されていたでしょう。それこそ初優勝同士の対決で盛り上がったに違いないでしょう。こういう風に想像してみると楽しいですね😃
1978年後期からは赤と白と紺の三色帽子になります。Bマークの帽子と猛牛マークのヘルメット以上に強烈なインパクトを残すことになります。また、念願のリーグ優勝、ドラマチックなゲームもたくさん繰り広げることになります。
また、こちらにこのユニフォームを語った、『近鉄バファローズのユニフォームを語る①』を載せておきます。こちらも御覧くださいませ。













