近鉄バファローズ 

ホーム用・ビジター用 1974年〜1996年

 

略年表

1974年《ホーム・ビジター共通》西本幸雄監督就任に伴いユニフォーム変更。

1976年〜1978年前期《ホーム・ビジター共通》ヘルメットのマークがBから猛牛マークに変更。

1977年《ホーム・ビジター共通》左袖の袖章が猛牛マークに変更。6月に背ネーム表記される。

1978年前期《ホーム・ビジター共通》ベルトレスからカバー付きインナーベルトに変更。

1978年後期《ホーム・ビジター共通》3色帽に変更。1996年まで。

 

 

 ホーム用

 近鉄バファローズといえばラグランスリーブの赤袖ユニフォーム。ニット素材のベルトレスユニフォームが流行りだした時期に近鉄バファローズはユニフォームを変えることにしました。このユニフォームは1972年に採用されたアトランタブレーブスの青袖のユニフォームをモデルにしました。赤袖にしたのは1974年に就任した西本幸雄監督が「燃える野球」をスローガンに掲げたことにあります。燃える色といえば赤しかないわけで、袖を青ではなく赤にしたわけです。両袖色付きのラグランスリーブユニフォームの中でも好きなデザインです。このとき、1996年まで着用されるなんて誰も思わなかったでしょう。


 これは1976年までのユニフォームに共通していることですが、左袖のマークがアトランタブレーブスのインディアンの羽根をかたどった袖章を模した袖章を採用していました。羽根というよりも炎をかたどり猛牛マークをねじ込んだ感じでしたが、これはこれで味わいがあって良いと改めて思います。

 23シーズン着用されただけあって、袖章が猛牛マークに戻ったり、モントリオール・エクスポズを参考にした三色帽子を採用したりとマイナーチェンジも度々ありました。特に、1978年後期に採用された赤・濃紺・白の三色帽子はリーグ優勝3回達成するなど近鉄バファローズのイメージを決定づけるものになりました。1979年にはチーム195本塁打、1980年にチーム248本塁打を放つなどホームラン攻勢で2連覇したいてまえ打線、最後は時間に負けてリーグ優勝を逃した1988年の10.19、ラルフ・ブライアント選手の4発でリーグ優勝に近づけた1989年の10.12、このユニフォームで作られたドラマは今でも語り継がれてます。また、このユニフォームは日生球場、藤井寺球場を彩ったことは間違いないです。


 太田幸司選手や島本講平選手のようなハンサムな選手よりも無骨な顔立ちの野球選手が多かった近鉄バファローズの選手達がこのユニフォームで躍動していた姿は今でも忘れないです。近鉄バファローズが消滅した現在でも猛牛マーク、このユニフォームとともに、私の心に近鉄バファローズが生き続けています。


1974年〜1976年。画像は西本幸雄監督。
1976年〜1978年前期、猛牛マークのヘルメット。画像は佐々木恭介選手。
1977年。画像は米田哲也選手。
1978年後期〜1996年。画像は梨田昌孝選手。
1977年途中〜1996年背面。画像は野茂英雄選手。
 

ビジター用
 ホーム用は白地に角が取れた番号書体であるのに対し、ブルーグレー地で番号書体が角張っているのが特徴です。細かいところはホーム用と同じなので割愛しますが、赤袖にブルーグレー地のユニフォームがしっくりきていたのは間違いないです。
1974年〜1976年。画像は羽田耕一選手。
1977年〜1978年前期。画像は佐々木恭介選手。
1978年後期〜1996年。画像はラルフ・ブライアント選手。
1977年途中〜1996年背面。画像はラルフ・ブライアント選手。