オリックスブルーウェーブ
ホーム用・ビジター用 1991年〜2000年
 
略年表
1991年《ホーム・ビジター共通》愛称をブルーウェーブに変更に伴い、基本デザインそのままに帽子のマーク、ホーム用の胸ロゴ、袖のマークなどを変更。
1995年《ホーム・ビジター共通》阪神淡路大震災が起き、左袖が「KOBE」から「がんばろうKOBE」に変更される。
1999年《ホーム・ビジター共通》左袖にが「がんばろうKOBE」から9種類のネッピーのマークに変更される。

ホーム用
 1990年10月5日、翌年から愛称をブレーブスからブルーウェーブに変更し、本拠地をグリーンスタジアム神戸に移転し、上田利治監督の辞任、土井正三監督の就任が発表されました。グリーンスタジアム神戸が準本拠地であったこと、神戸市からの熱心な誘致活動、同一県内での本拠地移転はオーナー会議での承認が不要であることから本拠地を移転しました。
 本拠地を西宮から神戸に移転したきっかけを話します。球団はコンサルタント会社を使い、西宮球場周辺をリサーチしました。御存知の方も多いかと思いますが、阪急西宮球場は野球場だけでなく競輪場としても運営してました。また、かつてブレーブスの本拠地があった西宮市には大手前大学(大手前女子大学)、神戸女学院大学、武庫川女子大学など女子大学や女子短大があります。「競輪場も有する西宮球場は男性がビールを片手に集まる場所であり、野球観戦するには女子大学生が足を運びにくい球場である」との結論に達し、本拠地移転を決めたそうです。この話からお盆の書き入れ時に野球開催が出来ないこともあり、阪急ブレーブス・オリックスブレーブスはチームが強くても観客動員で苦戦を強いられたことが伺えます。

 土井正三監督はブルーサンダー打線を解体し、読売ジャイアンツから守備力の高い・勝呂博憲選手を獲得するなど守備力に重きを置いた野球を進めていきました。そんな中、和製大砲・高橋智選手、クレバーなピッチャー・長谷川滋利選手などが台頭してきました。しかし、優勝争いに絡むことなく3年連続で3位と成績は奮いませんでした。土井正三監督が辞任し、仰木彬監督が就任。仰木彬監督と新井宏昌コーチがイチロー選手の才能を見い出し、イチロー選手は見事に活躍しました。イチロー選手の台頭で、レフト・田口壮選手、センター・本西厚博選手(のちに谷佳知選手)、ライト・イチロー選手の鉄壁の外野陣が生まれました。また、イチロー選手の活躍でチームは勢いに乗り、1995年、1996年とリーグ連覇を成し遂げました。しかも、1996年にはリーグ優勝と日本一の瞬間をこのホーム用ユニフォームで飾りました。イチロー選手がオリックスブルーウェーブ在籍していた2000年までこのユニフォームで躍動してました。鉄壁の外野陣だけではなく、内野手では大島公一選手、馬場敏史選手、小川博文選手などが、投手陣に目を向けると、佐藤義則選手、星野伸之選手、野田浩司選手、長谷川滋利選手、小林宏選手などの先発投手に加え、高橋功一選手、鈴木平選手、平井正史選手などの中継ぎ・抑え投手陣の活躍も忘れたくありません。

 1995年には阪神淡路大震災が起き、神戸市も大打撃を受けました。それでも宮内義彦オーナーが神戸での試合開催を訴え、チームとして「がんばろうKOBE」を合言葉に、左袖を「KOBE」から「がんばろうKOBE」に変えてシーズンを戦い、リーグ優勝を成し遂げました。このときに地元密着の道を邁進していたら大阪近鉄バファローズと合併しても神戸を本拠地にしていただろうと思います。イチロー選手が抜けた今でもオリックス球団が人気球団になっていたのではないかと思うのです。1999年には「がんばろうKOBE」に代わりマスコットキャラクターのネッピーが入りました。全てを紹介出来ずに申し訳なく思いますが、スライディングするネッピー、投げるネッピーなど9種類のネッピーが存在してました。公式野球規則には「同一チームの各プレイヤーは、同色、同形、同意匠のユニフォームを着用し…」と規定されていますが、特別に許可を得て着用されました。球界初の試みは2004年まで続きました。

 オリックス球団としてリーグ優勝2回、日本一1回でしたが、神戸の復興の為に全力を尽くして神戸市民を元気づけたことをオリックスバファローズは忘れてほしくありません。また、「がんばろうKOBE」を右袖に着けて戦い、神戸の街を元気付けたオリックスブルーウェーブのユニフォームを忘れません!

画像は仰木彬監督。
1991年〜1994年。画像は福良淳一選手。
1995年〜1998年。画像は平井正史選手。
1999年〜2000年。画像は星野伸之選手。
背面。画像左からイチロー(鈴木一朗)選手、仰木彬監督、パンチ(佐藤和弘)選手。
左袖のネッピーマーク。


ビジター用
 オリックスブレーブス時代と基本デザインは変わりませんが、左袖がBlueWaveになり、帽子のマークがホーム用と同様にBWになるなど、チーム名変更に伴った変更はありました。白を使わずに黄色の縁取りとラインを使ったことが記憶に残るユニフォームとなったと思うのは私だけではないはずです。

 このビジター用ユニフォームで思い出すのは1995年のリーグ優勝を決めた試合と1995年の日本シリーズ第4戦です。阪神淡路大震災を乗り越えてのリーグ優勝は敵チームでありながら素晴らしく、相手チームの胴上げを見ることになるのは複雑でしたが、震災を乗り越えてのリーグ優勝でしたから感動ものでした。日本シリーズではヤクルトスワローズに王手を掛けられて苦戦を強いられましたが、第4戦に一打サヨナラの場面で小林宏選手がトーマス・オマリー選手を三振に仕留めました。その時に投じた14球は名勝負となり伝説となりました。もしオマリー選手にサヨナラヒットを打たれたら全敗で敗退していただけに価値ある14球でした。さらに投稿していく中で、このシーズンに当時大学生でしたが、友人と数人でイチローを見に西武球場に観に行って、イチロー選手がホームランを含む猛打賞を挙げた試合を思い出しました。やはりこのユニフォームはイチロー選手をイメージしてしまうのも無理はないですね。

 これはどうでもいい話になります。懐かしのプロ野球グッズにVメガホンなるものが1990年代にありました。12球団ちゃんとありましたが、オリックスのだけは何故かすぐに壊れると私の周りにいる者達で話題になりました。もちろんガセでしょうが、この話は色々な方から聞きました。同じ会社が製造していると思いますが、事実なら不思議な話ですね。

 オリックスバファローズになり、「がんばろうKOBE」絡みでホーム用とともに復刻されてます。オリックスバファローズのネイビーとゴールドも悪くないですが、オリックスブレーブス・オリックスブルーウェーブの12シーズン着用された青地の上着に黄色のラインと縁取りが入ったユニフォームは1990年代を彩ったユニフォームだったと改めて思います。

1991年〜1994年。画像左から中嶋聡選手、酒井勉選手。
1995年〜1998年。画像は大島公一選手。
1999年〜2000年。画像は藤井康雄選手。
背面。画像はイチロー選手。