南海ホークス
ホーム用・ビジター用 1974年〜1976年、1977年
限定ホーム用ユニフォーム 1976年、1977年
略年表
1974年《ホーム・ビジター共通》ピッツバーグ・パイレーツ型と併用する形で採用。4月頃のみアンダーシャツが黄色になるが、後に緑に変更。アンダーソックスに黄色を採用。
1975年《ホーム・ビジター共通》Vネックのラインが黄色・白・黄色に変更。左袖にペットマークが入る。こちらは1977年まで。
1976年 限定ホーム用ユニフォーム(プロトタイプ)を採用。1977年まで。また、ビジター用のみパンツサイドラインがなくなる。
1977年《ホーム・ビジター共通》赤のラインを入るなどのモデルチェンジを行う。また、Vネックから丸首に変更。ホーム用もパンツサイドラインを廃止。選手名の背ネーム表記を採用。このユニフォームはこの年のみ。
ホーム用 1974年〜1976年
前回投稿したピッツバーグ・パイレーツ型と併用する形で明るい緑を使ったオークランド・アスレチックス型のユニフォームを採用しました。派手好きな野村克也監督らしさが反映されたユニフォームだと感じます。因みにこの明るい緑は1983年まで使われることになります。オールスターゲームなど全国ネットでテレビ中継があるような試合ではこのユニフォームが使われてました。この時期、このユニフォームとダークグリーンを使ったユニフォームと、どのぐらいの比率で着用されたのかはわかりません。後々ピッツバーグ・パイレーツ型を廃止したことを考えると、少しずつこのオークランド・アスレチックス型に切り替えていったのではないでしょうか。
ストッキングが明るい緑でアンダーストッキングが黄色を採用したことは画像にある通りですが、1974年の開幕当初にアンダーシャツが黄色だったことはあまり知られてません。着用した期間が短すぎて記憶に残ってないからだと思います。アスレチックスに倣ったとはいえ、少しやり過ぎた感じがあったのかもしれません。アンダーシャツを緑に戻してからはしっくりきてました。
カラフル化の波に乗り、明るい緑にチームカラーを変更したのはファンの興味を引く思いがあったように思います。パ・リーグ球団はセ・リーグ球団に観客動員面でも苦戦してました。何とかしたい思いは当時のパ・リーグ球団にあったはずです。カラフルなユニフォームも何とかしたい思いを形にしたことのひとつではないかと思います。
併用した結果、ピッツバーグ・パイレーツ型ユニフォームを廃止してオークランド・アスレチックス型ユニフォームが生き残りました。1977年ホーム用へと続きます。
1974年〜1976年。画像は山内新一選手。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230903/16/smiley-hidekazu/50/c3/j/o0221024015333485786.jpg?caw=800)
1974年4月頃。画像は江本孟紀選手。
背面。画像は江本孟紀選手。
ホーム用 1977年
袖とベルトレスラインに赤を採り入れて派手な印象を受けるユニフォームです。緑・黄・赤の色使いは思わず二度見してしまうくらいインパクト絶大であることは間違いないです。南海ホークス、福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークスの歴代ユニフォームは素晴らしいデザインばかりで、トップ10入り出来ませんでしたが、このユニフォームを私は高く評価してます。色使いとバランスの良さが素晴らしいものを感じるからです。もし野村克也監督が少しでも長く南海ホークスを率いていたら5、6年は着用し続けたかもしれません。
しかし、公私混同がきっかけで野村克也監督が解任されることになり、この年限りの短命ユニフォームになりました。また、鷹に乗った少年のペットマークも、伊東芳枝氏(後の野村沙知代氏)が版権所有していた為に使われなくなりました。南海ホークス独自の肩ラインが無い、明るい緑を使ったユニフォームはわずか4年で幕を閉じることになりました。カラフル化の波に乗り、野村克也監督が気に入って採用したピッツバーグ・パイレーツ型のユニフォームを廃止してまで明るい緑を使ったユニフォームだけに切なくなってきます。その後ペットマークは剥がされ、翌年の1978年には二軍用として、1979年にはキャンプ用として使われてました。
短命ユニフォームだけに忘れ去られがちですが、1970年代に色使いとバランスの良さを兼ね備えたユニフォームがあったことはホークスファンのみならず胸に刻んでほしいと思います。
ビジター用 1974年〜1976年
南海ホークス初の、緑の上着を着用したユニフォームです。カラフル化の波に乗り、爽やかな感じになりました。ホーム用でも触れた黄色のアンダーシャツも緑の上着のユニフォームなら映えそうです。緑と黄の相性の良さを感じさせてくれます。
この時期は投手力を前面に出した野球でAクラスをキープしていました。江本孟紀選手、山内新一選手、藤田学選手、佐藤道郎選手、移籍加入してきた江夏豊選手や金城基泰選手などの投手陣が安定感のあるピッチングをしていて、チーム防御率は常にリーグトップを競ってました。一方、打撃陣では野村克也選手兼任監督の衰えを柏原純一選手や門田博光選手といった活きの良い若手選手が活躍してました。
野村克也監督時代の明るい緑を使ったユニフォームの最終型はこの後に続きます。
1974年。画像左からウェス・パーカー選手、ロン・ロリッチ選手。
背面。画像は藤原満選手。
ビジター用 1977年
ホーム用でも触れましたが、色使いとバランスの良さが素晴らしいものを感じるユニフォームだと感じます。ビジター用のほうが赤と黄色が映えるような気もします。赤を採り入れて彩りの華やかさも感じさせてくれます。ビジター用もトップ10入り出来ませんでしたが、私はホーム用と同様に高く評価してます。
野村克也選手兼任監督が女性問題でシーズン終了を待たずに解任されました。野村監督を慕っていた江夏豊選手と柏原純一選手は一緒にチームを出ていくと言い出して騒動になりました。江夏豊選手は広島東洋カープへ、柏原純一選手は日本ハムファイターズへ移籍することになりましたが、その後、投打の柱が抜けたチームは長期間低迷することになりました。その為、この年のユニフォームが短命ユニフォームになったのはもったいないと感じるのです。
ホーム用と同様、1970年代に色使いとバランスの良さを兼ね備えたユニフォームがあったことはホークスファンのみならず胸に刻んでほしいと思います。
1977年。画像は門田博光選手を迎える柏原純一選手ら選手達。
限定ホーム用(プロトタイプ)
プロトタイプともいえる限定ユニフォームです。ラインを無くしたシンプルデザインで、これはこれでいいと思います。限定ユニフォームではもったいない気がします。1976年はオープン戦、一部の公式戦、オールスターゲームに、1977年はオープン戦限定で着用されました。なお、ベルトレスラインとアンダーソックスの黄色などは該当年度のホーム用に準じます。細かいところでは、1977年は左袖のペットマークの下に赤でNANKAIが入り、背ネーム表記が選手名で赤(オレンジ)で表記されました。
1976年背面。画像はドン・ビュフォード選手を迎える選手達。