ヤクルトスワローズ

ホーム用・ビジター用 1974年~1977年

 

略年表

1974年《ホーム・ビジター共通》ヤクルトスワローズ誕生に伴いユニフォーム変更。背ネーム表記は廃止。

1974年途中 ビジター用のみ。オールスター戦頃に縁取りを濃紺から白に変更。1975年まで。 

1976年 ビジター用のみ。首ライン、袖ライン、ベルトレスライン、パンツサイドラインの色が濃紺・白・濃紺から赤・濃紺・赤に変更。

1977年《ホーム・ビジター共通》ベルトレスから赤のベルト付きに変更。

 

ホーム用

 1973年8月に手塚治虫氏の虫プロダクション倒産に伴い、それまでのアトムズの称号が使えなくなり、スワローズの称号が復活することになりました。ヤクルトスワローズとしての最初のユニフォームが今回語るユニフォームです。なぜこのデザインになったのかは不明ですが、この時代らしく鮮やかな色付けを可能にしたニット素材を採用し、1973年までの読売ジャイアンツ風のユニフォームとは一線を画すデザインになりました。球団初の縦縞ユニフォーム、濃紺に赤ツバの帽子、番号書体の丸文字など、この時代に即したデザインだったと言えます。また、ヤクルトスワローズのホーム用ユニフォーム=赤ストライプの源流とも言えるユニフォームです。赤ストライプユニフォームで初優勝し、初の日本一、さらには黄金時代へとつながってます。

 スワローズ伝統でもある、昔のデザインにアレンジを加えて復活させる手法もこの時期から始まりました。赤ストライプも、今の帽子のマークであるYSマークも、国鉄スワローズ時代にも使われていたSwallowsロゴも現在につながるものがあります。一時期にフルモデルチェンジで途絶えても昔のデザインを復活しながら現在の東京ヤクルトスワローズへとつながってます。そういう意味では、後のヤクルトスワローズにとってターニングポイントになったユニフォームではないかと思うのです。


 ホーム用は1977年まで4シーズン着用されました。皆さんあまり気付かれてないようですが、この4シーズンでAクラスは2回を数えました。松岡弘選手、安田猛選手、大矢明彦選手、若松勉選手などヤクルトアトムズからの選手達と若い選手達が実力を蓄えてきた時期で、彼等が荒川博監督、広岡達朗コーチ(後に監督昇格)、沼澤康一郎コーチ、小森光生コーチといった早稲田大学出身のインテリジェンスな監督・コーチ陣の頭脳を採り入れたことで1978年のリーグ初優勝へとつながった時期でした。ヤクルトスワローズにとってターニングポイントになり、初優勝へとつながり、赤ストライプユニフォームの礎を築き上げたこのユニフォームをスワローズファンならずともプロ野球ファンなら覚えてほしいと思います。


1974年~1976年。画像は若松勉選手。
1977年。画像は梶間健一選手。
背面。画像は武上四郎選手。

 

ビジター用

 ニット素材を生かすべくビジター用はスカイブルー地に白のストライプを入れました。ニット素材によるカラフル化した時代もあり、少しやり過ぎた感がありました。今見てもパジャマみたいな感じは否めません。ただ、ストライプを無くせば悪くないユニフォームではないかと思います。

 ビジター用はほぼ毎年のようにマイナーチェンジを繰り返してました。その中で1975年のビジター用はどうも1974年のオールスターゲームで着用されたようなんです。1974年のオールスターゲームのセ・リーグ選手の集合写真でも出てます。画像載せましたのでご確認ください。したがって、一般的に知られている1975年のビジター用は「1974年後半〜1975年」とここでは記載します。

 このユニフォームで印象に残る場面は、1977年9月3日の王貞治選手の756号ホームランです。もちろんリアルタイムで見てません。鈴木康二朗選手は打たれましたが、決して逃げずに王選手に向かっていった姿勢は素晴らしいです。本当は載せたかったですが、いい画像が無かったので見送りました。鈴木康二朗選手に限らずスワローズの選手達はV9後の読売ジャイアンツに負けても負けても勝つ為に諦めずに戦い抜いたことも初優勝へとつながったのではないかとビジター用を記載するにあたって思います。


1974年前半。画像はファンブックより。左から71広岡達朗コーチ、73荒川博監督、72沼澤康一郎コーチ、65小森光生コーチ。
1974年後半~1975年。画像は松岡弘選手。
1976年。画像は安田猛選手。
1977年。画像は若松勉選手。
背面。画像は山下慶徳選手。