クラウンライターライオンズ

ホーム用・ビジター用 1977年〜1978年


略年表

1977年《ホーム・ビジター共通》クラウンライターライオンズ改称に伴いユニフォーム変更。1978年まで。

1978年《ホーム・ビジター共通》10月12日、福岡野球株式会社は国土計画に身売りして西武ライオンズ誕生したのに伴い、クラウンライターライオンズ終焉。


ホーム用

 太平洋クラブライオンズからクラウンライターライオンズにチーム名が変更されてもスポンサー料と入場収入が頼りだった球団経営は変わりませんでした。ユニフォームをカラフルにすることによってファンを惹き付ける作戦だった太平洋クラブライオンズ時代に比べると落ち着いた印象を受けます。それはデザインが上手にまとまっていたからだと思います。
 前面が白の赤い帽子、赤と白の太めのライン、筆記体のLionsロゴ、ホーム用にある胸番号の代わりの王冠マーク、右袖にはなぜか太平洋クラブのマーク(若干の資金提供を受けていた為)、左袖にはペットマークと太平洋クラブライオンズ時代に負けないこだわりを感じさせてくれるユニフォームでした。ランキングでもトップ10入りさせたいくらいのユニフォームです。国土計画に身売りして本拠地を埼玉県に移し、西武ライオンズが誕生したのに伴いわずか2年間の命だったのですが、もしクラウンライターライオンズが存続し続けていたら長寿ユニフォームになっていたかもしれません。

 この2シーズンは土井正博選手、竹之内雅史選手、基満男選手などのベテラン選手をはじめ、永射保選手、真弓明信選手、若菜嘉晴選手、立花義家選手といった若手選手が実力を付けるためにひたすら野球に打ち込んだ時期でもありました。太平洋クラブライオンズで使っていた青のアンダーシャツを練習時に使っていたように決して待遇が良くなかった球団でしたが、ベテラン選手と若手選手が腐らずに頑張ってきたから今の埼玉西武ライオンズがありますし、西武ライオンズに残った選手も他球団に移籍していった選手も活躍したわけです。太平洋クラブライオンズと同様、球団の財政が苦しくても投げ出さずにアイデアを形にして球団を存続した球団職員の方々と、球団の財政が苦しくても好きな野球に真剣に向き合い取り組んだ選手達が頑張って現在の埼玉西武ライオンズがあることをライオンズファンやプロ野球ファンは忘れてはいけません。

上の画像は根本陸夫監督、下の画像は土井正博選手。
背面。画像は左から鈴木治彦選手、若菜嘉晴選手。


ビジター用

 カラフルだった太平洋クラブライオンズ時代とは異なり、ビジター用ユニフォームはグレー地にしたことで、落ち着きをみせてくれたユニフォームです。帽子・ヘルメットともに前面は白ではなくライトグレーを使ってます。ライトグレーを使うことにより帽子・ヘルメットが浮いた感じではなくなりまとまりのある印象を与えます。また、胸ロゴは二段構えのCROWN LIGHTERで気持ち太めのレターなのでどっしりとした印象を受けます。


 このビジター用ユニフォームは勝てないイメージがあったのではないでしょうか。1977年、1978年ともにホームゲームではわずかながら勝ち越していましたが、敵地では大幅に負け越していました。福岡時代からのライオンズファンはどう思っているかはわかりませんが、私はまとまりのあるデザインのユニフォームだと思います。ホーム用とともにもっと評価していいと思います。


上の画像は土井正博選手、下の画像は真弓明信選手。
背面。画像は東尾修選手。