ロッテオリオンズ 

ホーム用・ビジター用 1973年~1991年


略年表

1973年《ホーム・ビジター共通》金田正一監督就任に伴いユニフォームを変更。選手名の背ネーム表記がこのユニフォームから始まる。

1983年《ホーム・ビジター共通》帽子のマークをマイナーチェンジ。1991年まで。

 

ホーム用

 金田正一監督から始まり金田正一監督で終わったユニフォームでした。このユニフォームは監督自らデザインを手掛けました。の三色を使い、肩ライン、脇ライン、パンツサイドのラインを使い、新素材のダブルニット生地を上手く使いました。特別カッコいいわけではないですが、何年経っても飽きないデザインだったことは30年以上経った現在でも実感します。金田正一監督は新技術をこのユニフォームで導入しました。それはラインを上に乗せるのではなく、パンツサイドのラインをボディにはめ込ませる手法を採り入れました。なかなか難しい技法のようですが、ユニフォームのメーカー(デサント)に要求しました。最新技術を積極的に取り入れる姿勢を聞いて、金田正一監督が意外と柔軟性を持った方なんだなと感じました。


 このユニフォーム着用時期は天国と地獄を味わった時期でもありました。天国は1974年の日本一と観客動員数でパ・リーグトップを競っていた時期です。金田正一監督就任以降、6シーズンでAクラス4回を記録し、1974年と1977年にはパ・リーグのプレーオフ進出に貢献しました。木樽正明、成田文男、八木沢荘六、村田兆治、金田留広の先発投手の充実で投手力を前面に出した野球が功を奏しました。また、監督の人気があったことも手伝い、1973年、1974年と続けてリーグトップを記録するなど観客動員数は常に上位に居ました。ただ、この時期は東京球場を手離したことで本拠地を持たず、仙台宮城球場を準本拠地にして主催球場を転々とした時期でもありました。タフな環境で結果を出し続けたロッテオリオンズの選手達は素晴らしいと改めて思います。対して、地獄はチーム力低下と川崎球場移転後の観客動員数減少です。1980年と1981年にそれぞれ前期優勝したのを境に、1983年に球団史上初の最下位を記録するなど少しずつチーム力が下がっていきました。1980年代後半には弱小球団に成り下がってしまいました。流浪球団だったロッテオリオンズでしたが、1978年大洋ホエールズが横浜に本拠地を移転したのに伴い、川崎球場に本拠地を移転しました。しかし、安住の地に待っていたのは苦難でした。観客動員数は減少し、スタンドはガラガラ。観客が流しそうめんを始めたり、カップルがイチャついたりと試合よりもガラガラのスタンドばかりが話題になりました。そんな牧歌的な川崎球場はなぜか好きでした。


 着用期間が長かったこともあり、マイナーチェンジもありました。帽子のマークは略年表に記しましたが、それだけでなくユニフォーム地にも変化がありました。最初はオフホワイトと呼ばれる白地でしたが、経年変化によってクリーム色になりました。見ても分かりづらい変化ですね。19シーズンの長き間、浮き沈みもありましたがオリオンズファンやマリーンズファンの方のみならず記憶してほしいユニフォームです。

1973年〜1982年。画像左から成田文男選手、村田兆治選手。 
1983年〜1991年。画像は村田兆治選手。 
背面。画像は有藤通世選手。

ビジター用
 レジェンドシリーズ2013でこのビジター用ユニフォームが復刻されました。伊東勤監督が「これだけは着たくなかった。いつも勝てると思っていた。弱いイメージしかない」と言ってました。これを聞いて本当に腹立たしくなりました。強くて人気があった時期があったことをわかってないんだと。さらに、勝つために技を磨いていた選手を否定された気分にもなり悲しくなりました。野手なら有藤通世選手、山崎裕之選手、落合博満選手、張本勲選手、リー兄弟など、投手なら仁科時成選手、牛島和彦選手、伊良部秀輝選手、小宮山悟選手などです。
 
 こちらはスカイブルー地でしたが、経年変化によって濃くなっていきました。19シーズンもの長き間、浮き沈み、笑いと涙がこのユニフォームに染み込んでいたことを私は忘れたくありません。
1973年~1982年。画像は弘田澄男選手。
1983年〜1991年。画像は水上善雄選手。 
背面。画像は落合博満選手。

おまけ・金田正一監督でみるユニフォーム変遷
もっとまともな画像は無かったのかとお叱りを受けそうですが、どうぞお許しください。
※ともに上の画像が第一次政権時(1973年~1978年)、下の画像が第二次政権時(1990年~1991年)です。
ホーム用
ビジター用