西武ライオンズ

ホーム用 1979年〜2003年

ビジター用 1979年〜1995年、1996年〜2001年

 

略年表

1979年《ホーム・ビジター共通》 この年のみベルトレス。

1980年《ホーム・ビジター共通》 この年からベルト式に変更。カバー付きインナーベルトになる。

1995年 ビジター用はこの年まで。

1996年 ビジター用。ファン投票によりユニフォームデザインを変更。2001年まで。

2001年 ホーム用。NIKEのスウォッシュマークが左胸上につく。白いベルトはこの年まで。

2002年 ホーム用。ベルトループが変更。白からライオンズブルーのベルトに変更となる。2003年まで。

2002年 ホーム用サードユニフォーム採用。2003年まで(後日投稿予定)

 


ホーム用 1979年〜2003年

 クラウンライターライオンズから西武ライオンズになり、本拠地が福岡県から埼玉県に変わって最初のユニフォームです。1978年10月12日に国土計画に買収され西武ライオンズとなり、1978年12月5日に球団旗、ペットマーク、ユニフォームが発表されました。堤義明オーナーが直々に手塚治虫さんにお願いして、球団旗、ペットマーク、帽子・ヘルメットのマークに『ジャングル大帝』のレオ(厳密にいうとパンジャ)を採用しました。手塚治虫さんのキャラクターがプロ野球界に出てきたのは鉄腕アトム以来です。このユニフォームをデザインしたのが、広告制作会社ライトパブリシティのデザイナー細谷巖氏でした。


 今では当たり前になっているカラーコンセプトを明確に打ち出したユニフォームでもあります。青空を表す(スカイブルー)草木を表すとチームの団結を表すのラインを打ち出しました。は『ライオンズカラー』と呼ばれ、白いバス車体のラインにも採用されてました。白いホーム用は新天地・所沢で新たな一歩を歩んでいこうとする清新なイメージがありました。ホーム用の白は本当に綺麗で、晴れ渡った昼間にも、照明の明かりに照らされた夜間にも映えてました。緑多い狭山丘陵に囲まれた西武球場に白いユニフォームとスカイブルーのさわやかな色合いがよく似合いました。さらに、このユニフォームには白いベルトがしっくりきてました。


 私がプロ野球を見始めて40年の現在でもNo.1ユニフォームとして輝きを放ってます。ビジター用は1995年まででしたが、ホーム用は2003年までの25年着用されました。黄金時代でも今見ても長年飽きの来ないユニフォームはなかなかないのではないでしょうか。根本陸夫監督、広岡達朗監督、森祇晶監督、東尾修監督、さらに伊原春樹監督、それぞれの時代を華やかに輝かしく彩りました。西武線沿線にライオンズがやって来てからのファン、黄金時代を知るファンなどは今なおライオンズブルーに思い入れが深く、西鉄ライオンズの黒と西武ライオンズの青を混ぜたレジェンドブルーと呼ばれる紺を受け入れつつもライオンズブルー復活を願っているようです。私もレジェンドブルーよりもライオンズブルー派です。また、チームカラーだけでなく番号書体も見やすくて今なお好きな書体だと勝手に思ってます。


 来年3月16日にライオンズ球団初のOB戦が行われます。ライオンズブルーを着用した懐かしの選手達がベルーナドームに集まります。もし観戦することになったら涙無しでは観戦出来ないのではないかと思います。ファンになった時のユニフォームでしたから。

 
1979年。画像左から松沼雅之選手、ウィリー・スタージェル選手(パイレーツ)、森繁和選手。
1980年〜2000年。上の画像は田淵幸一選手、下の画像は東尾修選手。
2001年。画像は松井稼頭央選手。
2002年〜2003年。画像は豊田清選手。
ホーム用背面。画像は西口文也選手。
 
ビジター用 1979年〜1995年
 上下ともスカイブルー地でしたが、実はグレー地のユニフォームになっていた可能性があったことを知るプロ野球ファンは少ないのではないでしょうか。当初はグレー地でデザインされてましたが、清新なイメージにしたいと要望したこともあり、上下ともスカイブルー地になったとのことです。上下ともスカイブルー地だったこともあり、最初はパジャマみたいだと言われていたようですが、強くなるにつれて相手が恐れるユニフォームになりました。ライトブルーが鮮やかだったので私はカッコいいと思ってました。もし上着がスカイブルーでパンツが白だったらどんなイメージになったのだろうか考えるだけでも面白いですね。東尾修監督時代にこのユニフォームは終わりを告げることになりますが、このユニフォームで3度の日本一を目にしたことを思い出します。

 当初は青が濃くて、経年変化で明るい青になっていったイメージがありましたが、光の加減によるものだと後になって感じるようになりました。今振り返ってみても、ホーム用、ビジター用ともにさわやかさの中に強さを身に着けたユニフォームであり、プロ野球史上に名が残るデザインであることは間違いありません。

1980年〜1995年。上の画像は渡辺久信選手。下の画像は左から石毛宏典選手、辻発彦選手。
 1979年。画像は松沼博久選手。
ビジター用背面。画像は1992年の日本シリーズで日本一になって森祇晶監督の胴上げ。
 
ビジター用 1996年〜2001年
 5連覇を逃し、65試合30勝32敗3引き分けとビジターゲームで負け越した1995年オフ、ビジター用ユニフォームをファン投票によって決めることを発表しました。下の画像にも掲載しましたが、4つの案が候補として示され、前立てラケットラインが入ったA案が採用されました。若干の手直しがなされ、西武球場での読売ジャイアンツ戦でお目見えしました。赤と緑のラインを廃止してスカイブルーと白を軸に濃い青のラインで上手くまとめたユニフォームだと思います。当時はあまりカッコいいとは思いませんでしたが、ユニフォームのデザインが変更されていく中で段々カッコいいと思うようになりました。今では好きなユニフォームのひとつになりました。マイナーチェンジほどではないですが、左袖にあるレオマークの表情が1996年と2001年で多少異なっていることを直前に知りました。

 このユニフォームが着用された時期は東尾修監督時代でした。黄金時代を終えて若い選手を中心にした機動力野球を標榜するなど新しい時代へと進んでいた時期でもありました。松井稼頭央選手、大友進選手、高木大成選手、投手では西口文也選手、松坂大輔選手などの活きの良い若手が躍動していた時期でした。2022年にライオンズクラシックで復刻しましたが、源田壮亮選手や平良海馬選手など大変良く似合ってましたし、違和感無くしっくりきてました。残念だったのは、このユニフォームで日本シリーズに2回出場して一度も勝てなかったことです。若さが顔を出してしまい日本一には無縁でした。一つでもいいので勝ちたかったですね。

 上下青のビジター用ユニフォームの影に隠れてしまった感がありますが、明るいライオンズブルーを身にまとった若い選手達が躍動していた、このユニフォームをこうして手短にはなりますが語れてよかったと文章を打ち込みながら感じました。

上の画像は画像はトニー・フェルナンデス選手、下の画像は伊東勤選手。。
背面。画像左から松坂大輔選手、片岡篤史選手、中嶋聡選手。


 
 
 
上の画像は投票用紙、下の画像は投票用紙に基づいたイラスト。