横浜ベイスターズ

ホーム用・ビジター用 1993年〜2008年



略年表

1993年《ホーム・ビジター共通》チーム名改称に伴いユニフォームを変更。

1996年《ホーム・ビジター共通》帽子のマークを変更。☆3つから☆1つになり、☆の中にBマークが入る。

2001年《ホーム・ビジター共通》スパイクが青地に白いラインから白地に青いラインに変更。

2003年 ビジターのみパンツサイドのラインが細くなる。

2004年 ビジターのみ袖ラインが細くなる。また、この年のみホーム用の帽子が4月とサマーユニフォーム以降でデザインが異なる。サマーユニフォームを採用。デザインを変更しながら2008年まで。

2005年《ホーム・ビジター共通》交流戦限定ユニフォームを着用する。2006年まで。

2006年 ビジターのみ、胸マークがBのみになる。また、ホーム用のピンストライプがプリントになる。

2007年《ホーム・ビジター共通》交流戦限定ユニフォームのデザインが変更。2008年まで。

 

ホーム用

  親会社の大洋漁業がCI戦略を実施し、1993年4月1日に会社名をマルハに改称したのに伴い、地域に密着した市民球団を目指して「横浜ベイスターズ」にチーム名を改称しました。また、球団旗、ペットマーク、マスコットキャラクターも一新して新たなスタートを切りました。TBSが筆頭株主になる2001年までマルハは球団経営をすることになります。ベイスターズに改称されてから日本一を経験するなど球団史上最強時代を迎えます。 しかし、マルハからTBSに筆頭株主が変更されると弱体化へと進んでいきます。詳しい経緯は今回触れませんが、チームに対する愛情が感じられず、戦力補強には目をくれず、限定ユニフォームを頻繁に登場させて目先を変えて楽しんでもらう魂胆が見え見えでした。結果DeNAに買収される結果になりました。

 ホーム用は大洋ホエールズが誕生してから初めて縦縞を採用しました。横浜大洋ホエールズとは違う、アズールブルーと言ったほうがしっくりとくる明るい青(以下、リフレックスブルーと表記します)がで、若い選手にも港町にも映えたデザインでした。白地に帽子・ヘルメット、アンダーシャツ、背ネーム表記、ベルト、ソックス、ピンストライプ、BayStarsのロゴにリフレックスブルーが使われてますが、このユニフォームがカッコいいだけでなくファンからも愛されているのは縁取り(白とリフレックスブルーとの三層構造)や番号書体に黒が使われているからだと思います。このがいいアクセントになっていることも16シーズンの間、ベイスターズファンやプロ野球ファンに愛された要因と思ってます。また、番号書体に銅版印刷に使われているカッパー・プレート・ゴシックを採用していていることもこのユニフォームに味わいをもたらしていると言えます。大洋ホエールズから現在の横浜DeNAベイスターズまでの歴代ユニフォームの中で私がNo.1と言うことがお分かりいただけるのではないでしょうか。

 近藤昭仁監督が種を撒き、大矢明彦監督、権藤博監督が花を咲かせた横浜ベイスターズでしたが、マルハからTBSに球団経営が変わってからはサマーユニフォームなどの限定ユニフォームが多く、チーム力強化が疎かになりました。その結果、日本一にまで上り詰めたのにあっという間に弱体化してしまいました。強いチームを作り上げるのには時間が掛かるのに、弱くなるのはあっという間であることを横浜ベイスターズが物語ってくれます。なお、限定ユニフォームに関してはすべて取り上げることはせず、こちらが勝手にピックアップして取り上げていきます。
 ホーム用ユニフォームで印象に残る場面は、1995年頃に読売ジャイアンツ戦で勝った試合での近藤昭仁監督のヒーローインタビュー、別の試合での斎藤隆選手と佐々木主浩選手のヒーローインタビュー、1998年の日本シリーズです。近藤昭仁監督はジャイアンツ戦に勝つといつになく饒舌になり、監督自ら勝利に酔いしれていることがテレビ中継で明らかになりました。近藤監督が西武ライオンズでコーチをしていた頃には考えられませんでした。斎藤隆選手がヒーローインタビューで「頼りになるんで、もう佐々木さんではなくて佐々木様ですよ~(笑)」と佐々木主浩選手のそばでコメントしていて佐々木主浩選手が笑みをこぼしていたシーンでした。当時佐々木主浩選手が主人公の漫画『佐々木様に願いを』をネタにしていたので作者のみずしな孝之さんが喜んでいたエピソードを思い出しました。1998年の日本シリーズでは伊東勤選手から7盗塁を奪い2試合で13点を奪うなどマシンガン打線の勢いが凄まじかったことを第1、2戦で感じました。やはりマルハ時代の思い出が強く残りましたね。

 天国と地獄を味わったピンストライプのユニフォーム、日本一にまで上り詰めたマシンガン打線とともに記憶に残っています。横浜DeNAベイスターズもこのチームカラーとこのユニフォームをモチーフにするなど人気のあるユニフォームとなってます。今後これを超えるユニフォームは出るか楽しみにしてます!
 

1993年〜1995年。上の画像は野村弘樹選手、下の画像は谷繁元信選手。

1996年〜2008年。上の画像は佐々木主浩選手、下の画像は石井琢朗選手。
背面。画像は三浦大輔選手。
2004年4月と9月限定の帽子。


ビジター用 
 ビジター用は横浜大洋ホエールズのビジター用ユニフォームをベースにして、上着がリフレックスブルーに、パンツが白地になりました。左胸にはYOKOHAMA、右胸には3つの☆が散りばめられてBマークと小さめの胸番号がありました。横浜大洋ホエールズのビジター用ユニフォームはカッコよかったですが、横浜大洋ホエールズに比べると色味も手伝い明るくなった印象を受けました。だんだんラインが細くなり、左胸の☆が無くなるなどマイナーチェンジに伴う寂しさも隠し切れなかったです。それでもホーム用ユニフォームとともに歴代ユニフォームの中ではNo.2に位置してます。また、私の周りにいるプロ野球ファンもこのユニフォームは好評で、このユニフォームが好きだという人も多くいます。

 マルハ時代はマシンガン打線が猛威を奮っていたこともあり、打撃陣が目に浮かびます。石井琢朗選手、波留敏夫選手、鈴木尚典選手、ロバート・ローズ選手、駒田徳広選手、佐伯貴弘選手、谷繁元信選手、進藤達哉選手がヒットを重ねて大量得点を挙げていました。それ以前にはグレン・ブラッグス選手、畠山準選手が頑張ってました。投手陣は、大魔神こと佐々木主浩選手、斎藤隆選手、野村弘樹選手、三浦大輔選手、川村丈夫選手などの先発投手陣や五十嵐英樹選手、盛田幸希選手、島田直也選手、阿波野秀幸選手、福盛和男選手などの中継ぎ投手陣の活躍が目に浮かびます。末期には小宮山悟選手、金城龍彦選手、相川亮二選手も記憶に残っています。
 TBS時代になると、村田修一選手、古木克明選手、内川聖一選手、石川雄洋選手などの生え抜き選手よりも工藤公康選手、寺原隼人選手、仁志敏久選手などの他球団からの選手が記憶に残っています。弱かった時代でも頑張って輝く選手は出てくるものだと改めて思います。

 このビジター用ユニフォームでは1998年のリーグ優勝のシーンが印象に残ります。佐々木主浩選手と谷繁元信選手が抱き合い、選手達がマウンドに駆け寄り、権藤博監督が胴上げされて宙に舞うシーンは26年前でしたが忘れられません。この38年ぶりのリーグ優勝は、神奈川大学の箱根駅伝制覇や横浜高校の甲子園春夏連覇などの神奈川旋風の中のひとつに数えられるだけでなく日本中の話題をさらいました。

 若い力と横浜のイメージカラーに相応しい、初代横浜ベイスターズのユニフォームはホーム用・ビジター用ともに記憶に焼き付いて離れないです。ここ数年でプロ野球ファンになった方にはぜひ覚えてほしいユニフォームです!
 
1993年〜1995年。画像はグレン・ブラッグス選手。
1996年〜2002年。上の画像はロバート・ローズ選手。下の画像は左から谷繁元信選手、佐々木主浩選手、権藤博監督。
2005年。画像はマーク・クルーン選手。
2006年〜2008年。画像は工藤公康選手。
背面。画像は権藤博監督の胴上げ。