「ミキさん それは驕り」

 

これは約10年前にとある研修の最終日に

担当の先生から貰った言葉だ。

 

研修中に、その場にいたメンバーとの兼ね合いで

こうした方がいいだろう、と思ったことがあり

発言をしたところ

上記の言葉を貰ったのだ。

 

 

この当時は

自信を持って伝えることと

それが驕りなのかそうではないのか

区別が全くわからなかった。

 

この10年

事あるごとに思い出し考え続けてきた。

 

 

今ならこの言葉の意味が

本当によくわかる。

 

.

.

 

 

プラトンの洞窟の比喩を

ご存じだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

プラトンの洞窟の比喩は、

洞窟の中で手足を繋がれ、壁に映る影しか見たことがない囚人たちがいる。
ある時、囚人の1人が解放され、

外の世界を知り、真実を理解するが、他の人々はその真実を受け入れない。

 

簡単にいうとこんな感じのものだ。

 

これが結構、自己啓発で使われることが多い。

 

洞窟の中にいるのは

真実を知らないままなんだー!!!

 

みんなで外に出よう!!!!

 

みたいに。

 

実際にみんなで外に出て、ほら、

言ってた通りだったでしょ。

 

と描く映画やドラマ

そしてビジネス書やセミナーなども

沢山ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

または

そうしないものもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

5年前には、この

「そうしない」がよくわからなかった。

 

こっちにいくのが真実なら

こっちにいくのが正解でしょ。

その方が

全員にとって良い道に決まってるんだから。

 

と思っていた。

 

 

 

 

でもそうではないのだ、ということを

この半年で痛感した。

 

 

 

 

こっちに行くと決めるのは

あくまでも「自分」なのだ。

 

こっちがいいと思うのは

あくまでも「自分」なのだ。

 

どっちを真実か判断するのも

その真実の真偽はともかく

どちらで生きていくか決めるのは

「自分」なのだ。

 

 

 

絶対的な正解も不正解も

万人共通の幸せの判断材料もない。

 

もしも

正解はこれ!と言ってる人が

身近にいるなら、今すぐ逃げたほうがいい。

 

と伝えることも、

また同じことなのだ、ということを

最近はわかったのだ。

 

 

 

 

 

自分の周りの

大切に思う人がその状況下にいると

「驕り」が出てしまう。

 

 できることは

「私」はここにいること。

 

そして、大切な人に対して

「信頼する」ことしかできないのだ。

 

この「信頼」も難しい。

その人にとっての「善」を

勝手に決めてしまわないようにしないといけない。

 

 

 

 

「自分」で決めて歩んでいっている人の

「言葉」はどうしても強いと感じる。

 

「意志」が入る分、重くなるのだ。

 

 

 

だから、「自分」で決めることができない場合は

その重い言葉を発する人の意見を採用してしまうのだ。

 

 

でも、本当に自分の意思がどこにあるのか

自分で気づいて決定していかないと

その重みで

「私もこっちがいいと思ってた」

「こっちにいく方がいいんかな」

「こっちがどう考えても正しいもんね」

 

と自分の決定に

「正しさ」を求めてしまうようになる。

 

 

 

 

結局は「自分」で決断していくしかない。

自分の感じる「違和感」はその人だけのもので

その違和感から出されるベクトルを元に

次の決定をしていくだけだ。

 

 

 

誰も一緒に行くことのない

自分で作って歩んでいくことは

そこに「孤独」を感じることかもしれない。

 

だけど、

「孤独」と「寂しさ」はセットではないのだ。

 

 

 

 

 

 

そしてそれが

「幸せ」なのかというと

それは「幸せ」の定義によるだろう。

 

 

少なくとも私は、

過去にこれが「幸せ」だと感じていた「幸せ」ではない【幸せ】を

感じているように思う。

 

自分で決めて進んでいくことは

安易なこととは言い難い

「難儀」なことであることは間違い無いだろう。

 

 

でも「難儀」なことは

私にとっては「嫌」なことでは決してない。

それを【幸せ】だと感じれることが

今は嬉しい。

 

 

 

 

「認識変換」についてお話をする

メンバーシップをstand . fm にて行なっています。

月額1,000円

 

いくつか無料で聴ける放送も交えていますので

是非🫶