【孤独と寂しさ】

 

 

圧倒的な孤独感に苛まれている人を

何人か見てきた。

 

「苛まれる」と表現したのは

そのように私には見えたから。

 

そのように見えたのは

そこに圧倒的な「寂しさ」を感じたからだ。

 

 

この

「孤独」と「寂しさ」はセットではない、

ということに改めて気づいた、というのが今日のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「孤独」であることは

必ずしも「寂しい」とは限らない。

 

そのような認識を

しばらくの間忘れていたようだ。

 

 

 

 

私は、一人の時間を好むことが多い。

「孤独」を感じることもあったのだが

 

ここに「寂しさ」を感じなかったから

この感覚に「孤独」とラベリングすることは

なかったのだ。

 

 

 

このセットってなかなか厄介だと改めて思う。

 

なぜならば、

 

「孤独」を感じた時に、私は「寂しい」のだと

勝手に変換してしまう場合があるからだ。

 

 

 

 

そういえば、と

過去に出会った

個人の世界に楽しそうに没頭していた人たちを思い出す。

 

 

他人が入り込む余地もない

その人が創造した

その人だけの楽しい感覚の世界が構築されていたように思う。

誰とも共有できないその人だけの世界だ。

 

それを

「孤独」だとラベルをつけても良いのではないだろうか。

 

それは

決して「寂しい」とは違うのだ。

 

 

 

 

 

では「寂しい」とはどこからくるのだろうか。

 

「寂しい」とはどのような感情なのだろうか。

 

「寂しい」を感じることにはどのようなイメージがあるのだろうか。

 

苛まれる必要があるような感情なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は琵琶湖をある地点から撮影したものだ。

 

じーっと琵琶湖の水面から

水面下へと意識を潜らせる。

 

鎮まる空間に身を置くことは

「孤独」を感じる行為に思えた。

 

そこに何も「感情」は発生しなかった。

 

正確にいうと

知り得る「感情」は発生しなかった。

 

【感情】は発生していたのかもしれない。

きっとそうなんだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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是非🫶