今日、友人と話していて、アシュタンガヨガを突き詰めていくのか、他のヨガも勉強して行くのかと言う話になったときのこと。
私にとっては、ヨガはすでに趣味の域を超えてしまっているので、レッスンをする際に、目の前にいる生徒さんが必要としているものを提供したいと言う想いがあります。
それで、今年はアシュタンガヨガ(この場合はアシュタンガ・ヴィンヤーサ・ヨガ)に偏り過ぎない勉強をしていきたいと思っています。
で、彼女は例えとして、森の中にはいろんな木があって、そのうちの1本の一番上まで登ってみて初めてその森の景色が見える、いろんな木に少しずつ登っても、低いところまでしか登れないから、森全体の景色は見えないんじゃないかという話をしてくれました。
これをヨガに置き換えてみると、まずアシュタンガヨガを極めてみるのもいいんじゃないかなってことかなと私は理解しました。
確かにそうですね。
すべてが中途半端になってしまっては何をやっているのかわからなくなってしまう。
帰ってからもそれをなんとなく考えていました。
で、ふと思ったんです。
森をヨガとして、ヨガを極めることを目的としたら、そういう考え方もできるなって。
でも、例えば森が人生だとしたら。
私はヨガを人生をよりよく生きるためのツールだと思っています。
ヨガを極めることは幸せに生きていくための手段。
そう考えた時には、ヨガは全部ひっくるめてヨガという1本の木にすぎないんですね。
だったら、ヨガという木を一生懸命登っていけばいいんじゃないかなって。
これは、もちろんどちらがいい悪いということではありません。
見方を変えたり、どこにフォーカスするかで、どんな風にでも受け取れるという、ただそれだけのこと。
私にとってのヨガというものを改めて考えさせてもらうきっかけになりました。
友人との今日の会話に感謝です。
ありがとう。