先週の夕方、かつて職場に通った駅に降り立った。
もう、30年くらい前のこと。
建物は新しくなっていて、道路はきれいに整備されていて、
それでも街の雰囲気が変わらないのが不思議な感じがした。
 
夕方は家にいることが多いので、夕焼け空が珍しく、
不思議な感じのする街を歩きながら、外遊びから家に帰っていく子どもの気持ちを味わっていた。

誘われて『母の法廷』(作・演出 高橋いさをさん)という舞台を観劇した。
 
殺人未遂事件を起こした若い男をめぐる検察官、弁護人、裁判員、被告人の母親による女たちだけの裁判劇。
 


「それでも、わたしはあなたの母親です」

 

 
出演は元宝塚娘役トップスター月影瞳さんはじめ4人の女優さんだけ。
被告人の男性は出てこない。
 
 
「それでも、わたしはあなたの母親です」
のコピーだけを読めば、被告人の母の台詞と捉えるが、
 
 
検察官、弁護人、裁判員、被告人の母親それぞれが、
「母親」なのである。
 
その母親には被害者女性の母親も当然いるのだが、(役としては出てこない)
見ている者がその想いを想像できる。
 
 
 
そして、
「母親」のもう一人は、見ている私たちなのだ。
 
 
 
 
 
 
服役中の息子に、元気でいるかと手紙で尋ねる。
 
どこにいても、何かをしてしまったとしても、
それでも、わたしはあなたの母親です…と。
 
 
心を揺さぶられる。
 
私は母親なのだ。
娘たち3人の母親だ。
 
ひとりは同じ市内に、ひとりは浜松に、そしてもうひとりは天国に。
 
居る場所の距離で言ったら、天国が一番遠いのだろうな。
それでも、3人に対して想うことは同じなのだ。
 
どこに居たとしても、
元気にしてる?
ご飯食べてる?
楽しくやってる?
ちゃんと眠れてる?
幸せにしてる?
と。
 
母親は子どもがどこで何をしていても、
たとえ殺人犯だとしても、たとえ死んでしまっていたとしても、
子どもの身を案じ、幸せを祈っているのだ。
 
 
最近思うのは、
残されたものは、亡くなった人が幸せに過ごしていることを想像することが役目なのではないかということ。
 
 
天国でも、極楽浄土でも、あの世でも、彼岸でも、
何でもいいのだけれど、
亡くなった娘がいるところ、そこで娘が幸せに過ごしていることを想像すること。
 
 
残された者は辛くて、悲しくて、切なくて、心が潰されそうでいても、
亡くなった人はこの世の苦しみから逃れて幸せでいると、
そう信じ、そう想像することが、
亡くなった人の「今」を作るのではないかと。
 
だったら、私ができることは、娘は幸せでいると信じることだけ。
そして、生きていた時と同じように、娘の幸せを祈るのだ。
 
 
 
「それでも、わたしはあなたの母親です」
そう、どこに居ようとも、何をしていようとも、
この私が娘たちの母親であることに変わりがなくて、
娘たちが私の娘であることには変わりがない。
 
 
 
たとえ天国に居てもね。
それでも、わたしはあなたの母親なのよ。
 
 
食いしん坊のあなたのために、
いっぱいいっぱい美味しいものを食べていることを想像するね!
 
 
 
今、がんばってるあなたを応援します。
ふぁいと