先日のブログ記事でも紹介した【 覚りの定義 】
をもう一度掲載します。
『『悟り』とは、人間が生まれ、全体意識から自らを切り離して『自我』を確立した後に、『自我』を持ったまま、再度全体意識を理解する、というプロセスのことだと言えます』。
仮にこの定義に則ると、佛とは全体意識。
抽象度を究極まで高めた境地、みたいなものでしょうか。
『いったい創造主は、なにゆえ人間に自我を投与したのだろう』
それはおそらく、自我という最も具体化された枝葉の世界を経験して、そこから再び根幹たる佛の抽象的な世界に戻る、という全てのプロセスを我々に経験させようとして、敢えて創造主は、この厄介な『自我』を持たせてくれたのだろう。
成佛するためには『覚り』が要る。
その『覚り』とは、いったん佛から離れ、もがき苦しみ、死んで産まれてまた死んで
、もう、これ以上具体化できないというところまで佛から離れた時に、忽然と枝葉から世界全体が見渡せる瞬間のことなのかもしれません。
『覚り』とは『振り返ること』。
振り返る、といっても物理的に反対を向くわけではなくて、思考の方向を具体化から抽象度を高める方へ変える、ということです。
いや、『覚り』と『悟り』は厳密には違う。
『覚り』とは、成佛する究極の目覚めです。完全なる真理の理解のことで、これはめったにない。
『悟り』とは、この大いなる世界を断片的に理解すること。
そういう意味では、具体化された末端の狭い世界から、広大な全体意識に戻ったのが佛だよ、と理解したことで、小さな『悟り』を得たのかもしれません。
調子に乗ったらダメですが、多いに感動しました。
現代の社会は、究極まで具体化された世界で、それぞれがバラバラに存在し、お互いがお互いの関連性を見出せないで、それぞれが我欲の達成に邁進しています。
ところが、このまま進む先にはなんとなく希望がない。
ちょうど今の日本国内には、震災があり、不景気があり、みんなが縮小するマーケットの中で、競争するより助け合おう、という意識が芽生えたような気がします。
競争は青天井のうちは楽しい。
でも、どれだけ競争しても行き着く先はは袋小路であるということを悟れば、突然競争に魅力がなくなる。
いま、国内での企業間競争ほどバカバカしいものはない。
あまりにも増え過ぎた商品を統合して、技術、知識を持ち寄って、みんなが幸せになる方法を考えようよ、って雰囲気が出てきました。
これって、意識が具体化された自我意識から、大転換を起こしつつある兆候ではないでしょうか。
・四弘誓願(佛弟子の4つの誓い)
一、『衆生無辺誓願度』
(衆生は数えることができないくらいたくさんいるけど、その全員が佛を目指すように誓う)
二、『煩悩無数誓願断』
(煩悩は数えることができないくらいたくさんあるけど、それら全てを断ち切るように誓う)
三、『法門無尽誓願知』
(佛の教えは数えることができないくらいたくさんあるけど、それら全てを知るように誓う)
四、『佛道無上誓願成』
(佛へ至る道のりは測ることができないくらい遠いけど、必ず到達するように誓う)
・妙法蓮華經方便品第二
『諸佛世尊 欲令衆生 開佛知見 使得清浄故 出現於世 欲令衆生 開佛知見 使得清浄故 出現於世 欲示衆生 佛知見故 出現於世 欲令衆生 悟佛知見故 出現於世 欲令衆生 入佛知見道故 出現於世 』
(佛は、衆生に佛の智慧を気づかせ、悟らせ、みんなが佛に至る道を歩むように、そのためにこの世に出現した)
・妙法蓮華經普賢菩薩勧發品第二十八
『若善男子善女人 成就四法 於如来滅後 当得是法華経』
(もろもろの善男子善女人よ。如来がいなくなった時、以下の4つの法を成就することで真実の妙法蓮華經を理解できるであろう)
『一者為諸佛護念』
(ひとつ目は、諸佛に護念されているという自覚を持つ)
『二者植諸徳本』
(ふたつ目は、もろもろの良き行いを行じる)
『三者入正定聚』
(みっつ目は、心を平安に保つ)
『四者發救一切衆生之心』
(よっつ目は、全ての衆生を救わんとの心を起こす)
つまり、自分ひとりの成佛を願っても、佛には近づけない。
自分だけでなく、みんなが幸せになるように、の心を抜きにしては、全体が見えないのでしょう。
一切衆生に対する慈悲の心こそが成佛の直道なのかもしれません。
慈悲の『悲』とは、泣いている人と、一緒になって泣いてあげること。
いわば『共感』です。
隣人と自分を違う存在だと分け隔てる心ではなく、『共感』し、意識を『共有』する時代になっていくことを心から祈ります。
普通の人が佛になるための絶対必要条件は、『覚り』を得ることです。
覚りとはなにか。
その前に、普通の人と佛の違いを明確にしなければなりません。
とりあえず、簡単に、しかも主観的に、類型化してみました。
(普通の人)悩みがある
(覚った人)悩みがない
(普通の人)感情の起伏が激しい
(覚った人)常に穏やかでいる
(普通の人)自分の思い通りにならず苦しむ
(覚った人)この世は苦しみであることを知っている
(普通の人)幸も不幸もずっと続くと錯覚する
(覚った人)世の中は常に変化することを知っている
(普通の人)死んだら終わりと思っている
(覚った人)死は一時的な状態を指す
もちろん他にもいろいろありましょうが、とりあえずこの辺で。
また日を改めて皆様の知識をお借りして、佛と凡夫の『ある・ない』データバンクなんか作ったら面白いかもしれませんね。
どうやら、佛を得るためには『自我』が邪魔なようです。
『自我』とは何かに執着する心。
『快楽』に執着するから失うのを恐れる。
『苦』から逃れようとするのは『楽』への執着の裏返し。
『生』に執着するから『死』を恐れる。
覚りとはある意味、自我を超越することと似ているのかも知れません。
自我を消すためにはどうすれば良いか。
太古より人は自我を消す方法を探してさまざまに試行錯誤を繰り返してきました。
断食したり、滝に打たれたり、お経を読んだり、座禅を組んだり、瞑想したり、あとひたすら南無妙法蓮華經とお題目を唱えたり。
もちろん、わたくしも読誦行もします。
水行もしますし、お題目も唱えます。
これらの修行法が悪いわけではないのですが、修行の目的を誤ればなんにもならない。
曹洞宗の開祖・道元禅師は
『佛道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり』
とおっしゃっています。
佛道って、何か目的を持ってやってちゃ佛に辿り着けない。
無心になれ、って言われても、無心になろう、って頑張れば頑張るほど『無心にならねば』という心に支配されます。
難しいですね。
基本、人が宗教を求める時というのは、困った時です。
日蓮大聖人も
『道心は病より起こるべく候』
とおっしゃっているように、人間、平穏無事な時は特に宗教に必要性を感じません。何か不幸な出来事があったおかげで菩提を求める心を起こすものです。
だからと言って、現状を打開するためだけに修行を重ねても全くダメなんですね。
『今より良くなりたい』
『幸せになりたい』
という自我を満足させようとしているわけで、逆に自我に支配されきった状態に陥ります。
だから目先の利益を得たいという心で、いくらお題目を唱えてもダメ。
目先の利益をゴールにしてお題目を唱えるというのは本末転倒で、やはり得道・成佛という、もう、圧倒的な目標達成を考えなきゃいけないのです。
ところが普通の人は、成佛を目的として信仰しない。
学業増進とか、病気平癒とか、商売繁盛などを神仏に祈ります。
その祈りのゴールには、常に自分で作り上げた幸せな自己像があって、進めば進むほど自分の仕掛けた罠に入り込んで抜けられなくなってしまう。
どんどん具体化して、究極の自己像を自分で具体化させすぎて、いったい自分とは何なのか余計にわからなくなってしまう。
祈りのベクトルが真逆なのです。
『佛道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり』
徹底的に自己を省みて、そして自己を忘れることが佛道らしい。
別に神仏に商売繁盛を祈ることがダメではないのでしょうが、そこをゴールにして、そこで祈りが止まったら、かえって佛から遠ざかってしまう。
それにしても、この世界の創造主は、なにゆえに人間に『自我』という厄介なものを投与したのだろう。
つつく
覚りとはなにか。
その前に、普通の人と佛の違いを明確にしなければなりません。
とりあえず、簡単に、しかも主観的に、類型化してみました。
(普通の人)悩みがある
(覚った人)悩みがない
(普通の人)感情の起伏が激しい
(覚った人)常に穏やかでいる
(普通の人)自分の思い通りにならず苦しむ
(覚った人)この世は苦しみであることを知っている
(普通の人)幸も不幸もずっと続くと錯覚する
(覚った人)世の中は常に変化することを知っている
(普通の人)死んだら終わりと思っている
(覚った人)死は一時的な状態を指す
もちろん他にもいろいろありましょうが、とりあえずこの辺で。
また日を改めて皆様の知識をお借りして、佛と凡夫の『ある・ない』データバンクなんか作ったら面白いかもしれませんね。
どうやら、佛を得るためには『自我』が邪魔なようです。
『自我』とは何かに執着する心。
『快楽』に執着するから失うのを恐れる。
『苦』から逃れようとするのは『楽』への執着の裏返し。
『生』に執着するから『死』を恐れる。
覚りとはある意味、自我を超越することと似ているのかも知れません。
自我を消すためにはどうすれば良いか。
太古より人は自我を消す方法を探してさまざまに試行錯誤を繰り返してきました。
断食したり、滝に打たれたり、お経を読んだり、座禅を組んだり、瞑想したり、あとひたすら南無妙法蓮華經とお題目を唱えたり。
もちろん、わたくしも読誦行もします。
水行もしますし、お題目も唱えます。
これらの修行法が悪いわけではないのですが、修行の目的を誤ればなんにもならない。
曹洞宗の開祖・道元禅師は
『佛道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり』
とおっしゃっています。
佛道って、何か目的を持ってやってちゃ佛に辿り着けない。
無心になれ、って言われても、無心になろう、って頑張れば頑張るほど『無心にならねば』という心に支配されます。
難しいですね。
基本、人が宗教を求める時というのは、困った時です。
日蓮大聖人も
『道心は病より起こるべく候』
とおっしゃっているように、人間、平穏無事な時は特に宗教に必要性を感じません。何か不幸な出来事があったおかげで菩提を求める心を起こすものです。
だからと言って、現状を打開するためだけに修行を重ねても全くダメなんですね。
『今より良くなりたい』
『幸せになりたい』
という自我を満足させようとしているわけで、逆に自我に支配されきった状態に陥ります。
だから目先の利益を得たいという心で、いくらお題目を唱えてもダメ。
目先の利益をゴールにしてお題目を唱えるというのは本末転倒で、やはり得道・成佛という、もう、圧倒的な目標達成を考えなきゃいけないのです。
ところが普通の人は、成佛を目的として信仰しない。
学業増進とか、病気平癒とか、商売繁盛などを神仏に祈ります。
その祈りのゴールには、常に自分で作り上げた幸せな自己像があって、進めば進むほど自分の仕掛けた罠に入り込んで抜けられなくなってしまう。
どんどん具体化して、究極の自己像を自分で具体化させすぎて、いったい自分とは何なのか余計にわからなくなってしまう。
祈りのベクトルが真逆なのです。
『佛道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり』
徹底的に自己を省みて、そして自己を忘れることが佛道らしい。
別に神仏に商売繁盛を祈ることがダメではないのでしょうが、そこをゴールにして、そこで祈りが止まったら、かえって佛から遠ざかってしまう。
それにしても、この世界の創造主は、なにゆえに人間に『自我』という厄介なものを投与したのだろう。
つつく
今回の【 勝嚴寺大學 】で思ったのは
『過剰な具体化は退化なのではないか』
ということです。
ここで言う退化とは
『佛から遠ざかった』
という意味です。
『ねぇ。キミの話は要領を得ない。もうちょっと具体的に頼むよ』
と言われることはあっても、普通その逆はない。
『もっと抽象的に言え』
なんてことを要求されることなんて、この社会ではほとんどない。
われわれの社会は、物事をより具体的に変換していくという作業を、ひたすら善だと信じて、人類を総動員してやってきたのです。
そうやって、ありとあらゆるものを際限なく具体化していった究極の姿が、現代の社会なのではないか。
具体化し過ぎると、他者との関連性がわからなくなります。
そうして枝葉だけを見つめていった結果、バラバラになった世界こそがまさに佛教でいうところの煩悩界。
自己と他者を区別する心・いわゆる『自我』が支配する世界です。
先日、極めて興味深いネット記事 をたまたま読みました。
【 覚りの定義 】
『『悟り』とは、人間が生まれ、全体意識から自らを切り離して『自我』を確立した後に、『自我』を持ったまま、再度全体意識を理解する、というプロセスのことだと言えます』。
これには一本取られた。
『自我』とは非常に厄介なもので、極端に言うと、人間の全ての苦しみは『自我』があるからこそ存在するものであって、もし自我がなくなれば全て解決できるのではないかと思えるほどです。
『自我』とは、自分と自分以外を分ける心の作用。
自分という範囲で括られた個体の利益を求める力。
その自我同士がぶつかり合って、適当なところで妥協して、それぞれがそれなりに満足と不満足を持ちながら存在しているのが人間界です。
『初めに言葉ありき』。
神は、初めに人間に言語と論理性をちゃんと与えていた。
やがて人間はその言語と論理性で、地上の生物の頂点に立った。
しばらくして神は、人間の慢心による行為に怒り、言語からその命である論理性を奪った。
次第に人間は神から離れ、具体化された世界を追い求め、自我を肥大させ、全体の調和を見失い、戦争や貧困に満ちた現在に至る。
いま、人類は言語獲得以来最大の転換期を迎えたのかも知れません。
つづく
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【 上田 都の“学習我道法” 】
ということです。
ここで言う退化とは
『佛から遠ざかった』
という意味です。
『ねぇ。キミの話は要領を得ない。もうちょっと具体的に頼むよ』
と言われることはあっても、普通その逆はない。
『もっと抽象的に言え』
なんてことを要求されることなんて、この社会ではほとんどない。
われわれの社会は、物事をより具体的に変換していくという作業を、ひたすら善だと信じて、人類を総動員してやってきたのです。
そうやって、ありとあらゆるものを際限なく具体化していった究極の姿が、現代の社会なのではないか。
具体化し過ぎると、他者との関連性がわからなくなります。
そうして枝葉だけを見つめていった結果、バラバラになった世界こそがまさに佛教でいうところの煩悩界。
自己と他者を区別する心・いわゆる『自我』が支配する世界です。
先日、極めて興味深いネット記事 をたまたま読みました。
【 覚りの定義 】
『『悟り』とは、人間が生まれ、全体意識から自らを切り離して『自我』を確立した後に、『自我』を持ったまま、再度全体意識を理解する、というプロセスのことだと言えます』。
これには一本取られた。
『自我』とは非常に厄介なもので、極端に言うと、人間の全ての苦しみは『自我』があるからこそ存在するものであって、もし自我がなくなれば全て解決できるのではないかと思えるほどです。
『自我』とは、自分と自分以外を分ける心の作用。
自分という範囲で括られた個体の利益を求める力。
その自我同士がぶつかり合って、適当なところで妥協して、それぞれがそれなりに満足と不満足を持ちながら存在しているのが人間界です。
『初めに言葉ありき』。
神は、初めに人間に言語と論理性をちゃんと与えていた。
やがて人間はその言語と論理性で、地上の生物の頂点に立った。
しばらくして神は、人間の慢心による行為に怒り、言語からその命である論理性を奪った。
次第に人間は神から離れ、具体化された世界を追い求め、自我を肥大させ、全体の調和を見失い、戦争や貧困に満ちた現在に至る。
いま、人類は言語獲得以来最大の転換期を迎えたのかも知れません。
つづく
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