厳しい言い方ですが、普通の人が神佛に御祈願をするといっても、それは自分の悩み悲しみを解決するために、意の如く神佛を使おうとしているのだけで、信仰とはかけ離れたところにあります。
自分に都合の良いような神佛を勝手に想い描いて、そんな虚構の偶像に自分勝手な御祈願をかけて、それで自分は信仰心があると思っている。
『道心は病より起こるべく候』
私たちの、今の難儀していることによってこそ、最高の智慧がいただけるわけであって、難儀していない時に最高の智慧はいただけない。健康である時に、健康 であることのありがたさがわからないのと同じです。不思議なことに、いったん身体が不自由になって、また以前のように健康な状態に戻って、初めて、ああ健 康ってありがたいねぇ、と言える。
ということは病気になって大事なことは、単に表面上の健康不健康を論ずるのではなく、自分を不健康になさしめた、自分の日常生活のあり方の問題を悟ること であって、それを、やれ病気が病気が、と悲嘆を繰り返すだけなら、いくら周りが頑張ろうとも、当人が心の底から目覚めなければ全く改善はならないのです。
煩悩を祓い清める心こそが必要なものを、わざわざ寺社に来て、これから因縁罪障を祓い清めたいという者が、不幸を人のせいにし、生育環境を愚痴り、他者を 憎み、そうやって自分でまた因縁罪障をかき集めて、自分でこしらえたニセモノの神に願をかけて、血で血を洗う、とよく言いますが、罪障で罪障を洗う。だか ら永遠の輪廻から抜けられない。
わたくしたち人間も、元々は自然の命であって、その自然の力によって人間としての姿や形が備わったものです。
その自然界をして神という。
それを悟るをして佛という。
ひたすらに自己を内省して、自分はなんて哀れだったのか、なんと愚かだったのか、ということに気づいて、そこで初めて自分に起きた出来事の真のありがたさがわかる。
『身より無数の光を放って佛道を求むる者の為に 此の希有の事を現じたもう(如来神力品第二十一)』
とありますが、ここで言う『佛道を求むる者』とは『根本に自らの佛心を求める者』ということです。佛道とはすなわち『自らが佛へ至る道』であり、佛を求めると言っても、
『どっかに自分を助けてくれる神様いないかなあ』
と物理的な外部世界に救世主を探し回ることではないのです。
ですから、よく当たる占い師、よく効く祈祷師など世間で評判の良いところにいくら出かけていっても、そこに佛はいない。いるかもしれませんが絶対に見えない。
なぜなら救いを佛ではなく、人に求めているから。人に頼ったところで、衆生が衆生の心を食べているだけですから、根本的な悩みがなくならないのは当たり前 です。もちろん全ての衆生には佛心はあるけれども、それは常に煩悩に追われている心ですから、それはやはり煩悩心であり、都合よく自分を助けてくれそうな 偶像であり、我々が求めている佛心ではない。いま困っている悩みを、新たに自分の煩悩が作り出した別の偶像でなんとかしようとしているだけで、そこに気づ かなければ真実、何の救いもないわけです。
我々ができることの第一歩は、既成佛教の修行機関が必ず修行僧に最初にさせるように、自分の家とその周りを掃除することかもしれません。
だいたい悩みが慢性化している方の家の中は整理されておらず、不要なものがいっぱいです(ウチもですが)。
佛へ至る道の入り口を発見するためには、履きものの上げ下げから全部勉強し直さねばいけません。
家の中を整理すると同時に、心の整理をします。だから心の整理は身の整理。これらは一体です。自分のカラダの内と外は一体なのだということを悟る。外(形)がいくら良くても、心が伴ってなければ、その心がやがて形を心の状態のままに壊してゆく。それを因果と呼びます。
お祖師様の遺言の中に
『夫(そ)れ以(おもんみ)れば日蓮幼少の時より仏法を学し候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。出る気(いき)は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚 譬(たとえ)にあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定めなき習ひなり。されば、先(まづ)臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし(妙法尼 御前御返事)』
という有名な一節があります。
死ぬ、とは、自分には過去もない、持ち物も何もない、我一切ここにあらず、という心になるということであって、今もう自分は死んだ、という臨終の念を先に 自覚して、ようやく佛法の入り口に立てる、ということではないでしょうか。今まで自分が生きてきた中で作り、貯めてきた因果に縛られ、不要なものに囲まれ て、未練を引きずっていては永遠に佛道は見えない。
さあ、お掃除、お掃除です!









