サマセット・モームの『人間のしがらみ』はモームの代表作とされます。おそらくモームの作品中最も長い作品でもあります。私はかつて原書で読んだことがありますが、読み通すのに時間がかかりました。

 

 ところで、原題はOf Human Bondageで、日本では『人間の絆』と訳されてきました。つまりbondageをどのように訳すかの問題ですが、私は光文社新訳文庫の「しがらみ」がより適切だと考えます。「絆(きすな)」というと通常はポジティヴな意味で用いられる語ですが、本書のbondageはネガティヴな意味で使われていると思うからです。(なお、絆のタイトルをつけた中野好夫先生は、「ほだし」の意味で使ったようで、それなら「しがらみ」とほぼ同じ意味になりますが、今の人間が「絆」という漢字をみれば、「きずな」と読むのが一般的でしょう。)そのため、新訳の「しがらみ」の文字を見たとき、うまい訳だと思いました。(私は「人間の束縛」あたりがいいと思っていましたが、しがらみの方がずっと良い。)

 

 物語はモーム自身の投影である主人公フィリップ・ケアリーが様々な「しがらみ」から逃れていく話です。そのため、本書はモームの自伝的作品とされます。例えば、モームは吃音で、それがコンプレックスだったようですが、それがケアリーでは足の問題に変えられている、という具合です。信仰心を失うところや、芸術家を志す点、最終的に医師を目指す点などはモームの伝記的事実と重なるようです。

 

 大学時代の先生は、本書と『月と六ペンス』、後期の『かみそりの刃』がモームの3大傑作だと言っていました。ただ、『かみそりの刃』は仏教思想に接近したモームの思想が露骨に描かれすぎているように思います。モームならなんといっても『月と六ペンス』が面白いと思います。『人間のしがらみ』は長すぎるきらいがありますが、読み応えのある重厚な作品です。