ジョン・ケアリの『知識人と大衆 文人インテリゲンチャにおける高慢と偏見1880-1939』を読みました。

 

 1880年のイギリスといえばヴィクトリア時代真っ只中ですが、イギリスが世界一の強国でロンドンが世界の中心だった時代です。この時代のイギリスは文化が大衆化した時代でもあり、出版技術、流通手段、識字率などが向上し、それが文化の大衆化につながったわけです。

 

 本書はそんな時代のイギリス文学を俎上にのせ、新しく生まれた大衆文化としての芸術と、従来の芸術としての文学の狭間で活動した作家-ジョージ・ギッシング、H・G・ウェルズ、アーノルド・ベネット、ウィンダム・ルイスら-を考察しています。

 

 第二次大戦勃発までの20世紀ヨーロッパの文化は「モダニズム」と言われ、文学でいえばT・S・エリオットやジェイムズ・ジョイスらが該当します。彼らの文学は良くも悪くも難解で、例えば『ユリシーズ』などは私も読みましたが、良さが分かりませんでした。ケアリによれば、「モダニズム」は大衆を嫌ったインテリの抵抗だったということです。

 

 ニーチェの思想あたりを源として、D・H・ロレンスらはニーチェの弟子みたいなもので、彼らは悪く言えば大衆蔑視的視点をもって文学を執筆していました。本書ではそうした作家が批判的に扱われています。逆に、オスカー・ワイルドは(悪く言えば)大衆に迎合して成功を収めたポップ・カルチャーの人で、文学高踏派の人から見れば鼻持ちならない存在であり、ヘンリー・ジェイムズはワイルドを「汚い獣」と読んでいます。彼らはワイルドのような大衆に迎合した文化を、文化の女性化と考え(ワイルドはホモセクシャルだった)、女性蔑視が大衆蔑視と結びついていたことも指摘されます。

 

 様々な芸術家がやり玉に挙げられており、本書に対する反論も多いようです。訳者の方も「訳者あとがき」で、ケアリの「一面性」に言及しています。そもそも「大衆」という言葉自体が曖昧模糊としてもので、批評用語としては極めて頼りのないものです。

 

 牽強付会も感も強い書であるにも関わらず、それでも本書はこの時代の文化の一面は確実にとらえていると私は考えます。文学にしろ、音楽にしろ、美術にしろ、とにかくこの時代の芸術はわかりづらいものが多く、「わかる人間にはわかる」、「これがわかる人間は教養が高い」的な知的スノビズムの臭いがします。文化を自分たちだけのものにしておきたい人間による文化の先鋭というのは、それがすべてではないにしろ、確かであると思います。

 

 現代は個人がネットを使って簡単に発信できる時代で、「文化の大衆化」はさらに進行しています。私はこの傾向を肯定的にとらえています。