なんか、日記ブログではなく、こちらに書くのが良い気がしたのです。自分の内面と言うか、何とも言葉には表現しずらい部分は、こっちに書いた方がよろしいのではないかと、思ったのです。
◇◆◇
これは、とても自覚のある事柄なのですが。私は、黄泉路へと旅立った人に対して、酷く執着する傾向があるのです。その人が、自分にとって、近しいか、そうでないかも割と関わりがなく。自分の生きてきた中で、関わったモノに携わった人のことには、割と敏感な性質なのではと、自分では思っております。
そんな私が、一番身近な人を弔ったのは、齢九つ……新緑の季節でした。長らく寝たきりになっていた母方の曾祖父が、旅立ったのです。
普通に、学校に行っていました。四時間目が終わった頃だったでしょうか。給食を前に、していたことだけは覚えております。家からすぐ帰宅する旨の知らせに、当時担任だった先生が、給食のメロンをビニル袋に入れて、持ち帰らせてくれたことを覚えています。
当時、私は四年で、六年に兄がおりましたので。兄と二人、家へと帰り、当時曾祖父が入院しておりました病院に足を運んだように思います。残念ながらこのあたりの記憶は、朧気なのでありますが。
当時は、別段、何の感慨もなかったように思います。通夜や葬儀も、身内のこととしては初めてございましたし。その時分から既に、紺地や黒色の衣服を好いていた私は、その中でも、普段は着ることを許されなかった、幾らか上等な洋服をまとい、どうしたら良いのか判らぬ焼香などを、見よう見真似でしていたように思います。
その次は、父方の祖父が旅立ちました。ちょうど、私が高校受験の結果を待っていた時分でありました。
普段より、母の実家に住まう身でございますので、父方の祖父母に逢うのは、正月くらいのものでしたが。それでも、兄が初孫と言うこともあり、父方の祖父母には、そんな兄の妹である私を含め、良くしてもらっていたように思います。
ですが、当時の私は、それはもう受験の結果しか頭にはなく。付け加え、従妹弟は文字通り幼い子供たちがほとんどでありましたので。通夜の席から、何故か子守りをする羽目になり……。祖父との想い出を振り返る隙など、与えられない始末でございました。
斯く申しましても、振り返るほどに祖父との想い出などはないのですが。元来父方の祖父は、口数少ない人でありましたので尚のこと。
それでも、自分の受験の結果を待ち、愛する叔母たちに気遣われながら、従妹弟の子守りをしながら過ごした通夜と葬儀の想い出は、なかなかに鮮明に記憶に残っているのであります。
そして高校一年の初秋。
私は、世界で一番愛する女性を失くしたのです。
母方の曾祖母でした。曾祖父と同じく、物心がついた頃から、身近にいた存在でした。
その年の、春頃頃から体調が悪化し……。夏が訪れる頃より、近所にある総合病院に入院しておりました。
当時、高校に上がったにも拘らず、不登校を続けていた私ではあります。そんな自分のことを、心底心配し、気に掛けてくれていたのだと知ったのは、彼女が病院の寝台に横たわるようになってからでした。当時、彼女が自分に掛けてくれた言葉を、忘れることなどできません。今こうして文字を叩いていても、鮮明に思い出すほどに、私は、あの夏を覚えているのです。
彼女が与えてくれた労わりややさしさ、そして、私へと投げかけた問い。その言葉一つたりとも、十余年たった今でも、私は、忘れてはいないのです。
八月の、蝉のよく啼く日でした。病院の床で、彼女は私に問いました。
「なんで、自分は“ここに”いるのか」、と。
月が変われば、齢百を迎える人でした。
連れ添った曾祖父は、とうになく。一人息子の嫁は認知症となり、自分に辛く当たり。孫娘は夫婦仲悪く日々を暮らし。曾孫の私は、学校にも行かず……。
何よりも、齢百を迎える彼女に、私には言うことができなかったのです。自分の中に、たった一つだけあった答えを。
私なら、もういいと、言った。もう、十分だと。
だから私は、口にできなかった。
私の持つ答えは、エゴでしかないと思ったから。
そんな曾祖母が旅立ったのは、あの頃はまだあった、秋の盛り。
暑くも寒くもない、気持ちの良い夕べだった。
あの夜のことは、急に掛かってきた母からの電話から以降、全て覚えている。忘れることなんてできない。
一目散に走った急な坂道。
病院の、夜間通用口で待っていた兄。
真っ暗な病院の中、煌々と光が照っていた処置室。
私たちの声に、懸命に応えてくれた細い体。
無慈悲に、鳴ることを止めなかった、ピーっという無機質な音。
暗い病棟の風景。
次の日の約束を辞退する旨のメール。
すぐさま帰ってきたtel。
泣きながら歩いた坂道。
帰り付いた家に、もう二度とあの人は帰ってこないのだと知る。
茫然と座り込み見つめた家。
まだ事情を知らぬ見知った近所の人に返した力ない微笑。
腫れものを触るように、慣れないやさしさを気遣いを掛けてくる父親。
翌日の通夜の前、駆けつけてくれた愛する友人たち。
上手く笑えなかった自分。
彼女が、私のすべてだったのだと。気づいたのは、彼女を弔う時になってからだった。
その後、父方の伯母を弔い、世界の何よりも憎んでいた――殺そうとすら思っていた母方の義祖母が死に、父方の祖母を弔った。
祖母の葬儀には参列できなかった。自分が病床であったばかりに。だからなのか、実感は薄い。それでも、住まう人を失くした父親の実家の行く末について、伯叔父や叔母が話しているのを聞くと、もうあの家の主はいないのかと実感せずにはいられない。
身内のことだけでも、これだけあるのだ。身内以外にも、近しい人々の葬儀に、それなりに参列していると思う。
慣れたくはないのだが、正直、焼香や献花というものにも、些か慣れを感じている。慣れというのは正しくないのかもしれない。あの儀式のもつ意味を理解したとでも言うのだろうか。
正直なところ、こうして、親族や、その他近しい人々と、別れの儀式をしていくということが、齢を経るということなのかもしれないと、思わないでもない。その儀式というものに、麻痺していくということも含めて。
盆という時期は、嫌でも旅立った人のことを思い出すのだ。
中でも、世界で一番愛した人のことを。
正直、顔向けができるような生き方はしていない。だから、墓参りにも行けない。
それでも自宅にある仏壇に、線香くらいはあげたりする。
御鈴をならし、合わせる手には「ごめんなさい」という想いを籠めて……。
愛した人を偲ぶ想いはなくならないだろうと思う。
だが、いつの日か、晴れやかな顔をして、あの人の墓前に立ちたいと願う。
それが、私にできる、数少ないばあちゃん孝行だと思うから。
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これは、とても自覚のある事柄なのですが。私は、黄泉路へと旅立った人に対して、酷く執着する傾向があるのです。その人が、自分にとって、近しいか、そうでないかも割と関わりがなく。自分の生きてきた中で、関わったモノに携わった人のことには、割と敏感な性質なのではと、自分では思っております。
そんな私が、一番身近な人を弔ったのは、齢九つ……新緑の季節でした。長らく寝たきりになっていた母方の曾祖父が、旅立ったのです。
普通に、学校に行っていました。四時間目が終わった頃だったでしょうか。給食を前に、していたことだけは覚えております。家からすぐ帰宅する旨の知らせに、当時担任だった先生が、給食のメロンをビニル袋に入れて、持ち帰らせてくれたことを覚えています。
当時、私は四年で、六年に兄がおりましたので。兄と二人、家へと帰り、当時曾祖父が入院しておりました病院に足を運んだように思います。残念ながらこのあたりの記憶は、朧気なのでありますが。
当時は、別段、何の感慨もなかったように思います。通夜や葬儀も、身内のこととしては初めてございましたし。その時分から既に、紺地や黒色の衣服を好いていた私は、その中でも、普段は着ることを許されなかった、幾らか上等な洋服をまとい、どうしたら良いのか判らぬ焼香などを、見よう見真似でしていたように思います。
その次は、父方の祖父が旅立ちました。ちょうど、私が高校受験の結果を待っていた時分でありました。
普段より、母の実家に住まう身でございますので、父方の祖父母に逢うのは、正月くらいのものでしたが。それでも、兄が初孫と言うこともあり、父方の祖父母には、そんな兄の妹である私を含め、良くしてもらっていたように思います。
ですが、当時の私は、それはもう受験の結果しか頭にはなく。付け加え、従妹弟は文字通り幼い子供たちがほとんどでありましたので。通夜の席から、何故か子守りをする羽目になり……。祖父との想い出を振り返る隙など、与えられない始末でございました。
斯く申しましても、振り返るほどに祖父との想い出などはないのですが。元来父方の祖父は、口数少ない人でありましたので尚のこと。
それでも、自分の受験の結果を待ち、愛する叔母たちに気遣われながら、従妹弟の子守りをしながら過ごした通夜と葬儀の想い出は、なかなかに鮮明に記憶に残っているのであります。
そして高校一年の初秋。
私は、世界で一番愛する女性を失くしたのです。
母方の曾祖母でした。曾祖父と同じく、物心がついた頃から、身近にいた存在でした。
その年の、春頃頃から体調が悪化し……。夏が訪れる頃より、近所にある総合病院に入院しておりました。
当時、高校に上がったにも拘らず、不登校を続けていた私ではあります。そんな自分のことを、心底心配し、気に掛けてくれていたのだと知ったのは、彼女が病院の寝台に横たわるようになってからでした。当時、彼女が自分に掛けてくれた言葉を、忘れることなどできません。今こうして文字を叩いていても、鮮明に思い出すほどに、私は、あの夏を覚えているのです。
彼女が与えてくれた労わりややさしさ、そして、私へと投げかけた問い。その言葉一つたりとも、十余年たった今でも、私は、忘れてはいないのです。
八月の、蝉のよく啼く日でした。病院の床で、彼女は私に問いました。
「なんで、自分は“ここに”いるのか」、と。
月が変われば、齢百を迎える人でした。
連れ添った曾祖父は、とうになく。一人息子の嫁は認知症となり、自分に辛く当たり。孫娘は夫婦仲悪く日々を暮らし。曾孫の私は、学校にも行かず……。
何よりも、齢百を迎える彼女に、私には言うことができなかったのです。自分の中に、たった一つだけあった答えを。
私なら、もういいと、言った。もう、十分だと。
だから私は、口にできなかった。
私の持つ答えは、エゴでしかないと思ったから。
そんな曾祖母が旅立ったのは、あの頃はまだあった、秋の盛り。
暑くも寒くもない、気持ちの良い夕べだった。
あの夜のことは、急に掛かってきた母からの電話から以降、全て覚えている。忘れることなんてできない。
一目散に走った急な坂道。
病院の、夜間通用口で待っていた兄。
真っ暗な病院の中、煌々と光が照っていた処置室。
私たちの声に、懸命に応えてくれた細い体。
無慈悲に、鳴ることを止めなかった、ピーっという無機質な音。
暗い病棟の風景。
次の日の約束を辞退する旨のメール。
すぐさま帰ってきたtel。
泣きながら歩いた坂道。
帰り付いた家に、もう二度とあの人は帰ってこないのだと知る。
茫然と座り込み見つめた家。
まだ事情を知らぬ見知った近所の人に返した力ない微笑。
腫れものを触るように、慣れないやさしさを気遣いを掛けてくる父親。
翌日の通夜の前、駆けつけてくれた愛する友人たち。
上手く笑えなかった自分。
彼女が、私のすべてだったのだと。気づいたのは、彼女を弔う時になってからだった。
その後、父方の伯母を弔い、世界の何よりも憎んでいた――殺そうとすら思っていた母方の義祖母が死に、父方の祖母を弔った。
祖母の葬儀には参列できなかった。自分が病床であったばかりに。だからなのか、実感は薄い。それでも、住まう人を失くした父親の実家の行く末について、伯叔父や叔母が話しているのを聞くと、もうあの家の主はいないのかと実感せずにはいられない。
身内のことだけでも、これだけあるのだ。身内以外にも、近しい人々の葬儀に、それなりに参列していると思う。
慣れたくはないのだが、正直、焼香や献花というものにも、些か慣れを感じている。慣れというのは正しくないのかもしれない。あの儀式のもつ意味を理解したとでも言うのだろうか。
正直なところ、こうして、親族や、その他近しい人々と、別れの儀式をしていくということが、齢を経るということなのかもしれないと、思わないでもない。その儀式というものに、麻痺していくということも含めて。
盆という時期は、嫌でも旅立った人のことを思い出すのだ。
中でも、世界で一番愛した人のことを。
正直、顔向けができるような生き方はしていない。だから、墓参りにも行けない。
それでも自宅にある仏壇に、線香くらいはあげたりする。
御鈴をならし、合わせる手には「ごめんなさい」という想いを籠めて……。
愛した人を偲ぶ想いはなくならないだろうと思う。
だが、いつの日か、晴れやかな顔をして、あの人の墓前に立ちたいと願う。
それが、私にできる、数少ないばあちゃん孝行だと思うから。