「食べる為に他の命を犠牲にしない」という生き方を一生通す人が沢山いるインドという国のやさしさには深い感動を覚える。
最近の日本では肥満やコレステロールの問題から、野菜中心の食生活を送る人を、菜食主義者と呼んだりしているが、とんでもない話である。
インドの菜食主義は 「自分が生きるために他の生物の命を奪う事が赦されるのか?」という本質的な問題に呻吟し悩み抜いた末に人々が行き着いた宗教的な洞察と高度な哲学の実践である。
多様な生き物に囲まれ、これらの生物と共存する事を当然と考えてきたインド人には、人間に近い哺乳類を殺し、その肉を食べる事自体が罪であるとの感覚が生まれながらにある。
インド人のメンタリティは、自分が可愛がって育てた豚を秋に屠殺し、塩漬け肉やハム・ソーセージに加工して、冬に備える事を当然と考えてきた欧州の風土やヨーロッパ人の人間性とは全く違うものなのである。
人口約一千五百万人のイギリスが人口約二億人のインドを苦もなく植民地にできた原因を、産業革命を経たイギリスと産業革命を経験しなかったインドとの技術的格差に求める歴史観が一般的である。
しかし足下の土にも、草の上にも命が存在すると考え、野菜を食う時も菜の中の虫を噛み潰さない様に気を遣う心優しきインド大陸に、朝から晩まで肉を食い、口の周りにはいつも血をした垂らせている様な獰猛な肉食獣の英国人が上陸したと考えたら、一頭のライオンが十数頭の従順で心優しき牛の群れを支配する事など苦も無い事だったと理解できる。
菜食主義者(ベジタリアン)という言葉は十九世紀の半ば近くに英語の中に登場した。英語圏では肉食が基準であるから、肉食主義者に相当する言葉がない。
一方、インドでは菜食主義の事をタミル語で「サイバァム」という。これはシヴァ教徒の事にもなる。インドでは菜食主義が基本なので、こちらも肉食主義という言葉がなく、「ノン・ベジタリアン」と訳したのはインド製英語である。
インド人の三人に一人は生涯を通して肉を一片も食べない厳格な菜食主義者である。
菜食主義と肉食主義の真ん中には卵がある。卵には命があるかないかという考えを追求していくと受精卵には命があり、無精卵には命がないので食べても良いとなる。
受精卵から始まる肉食の系譜は海の魚、川の魚、羊、鳥、豚、牛と罪が深くなり、最後には人肉が来るのであろう。
無精卵から始める菜食の系譜は熟した果実、根菜類、果物、穀類、葉菜類となる。土から掘り起こす根菜類は、その採取の過程で土中のミミズや虫を殺す可能性が高いので、タマネギや芋類を食べないという菜食主義者もいる。さらに徹底した菜食主義者は命の宿らない穀物と葉物しか食べない。さらに徹底すると、水だけ飲む、空気だけ吸う段階へと進む。
日本人は断食を仏教的な修行と考えたり、健康の問題と考えているが「他の命を自分のために犠牲にしたくない」との思いを高めていった先に断食による餓死がある。これがインドである。この深遠な食の哲学の前で飽食ニッポンは何を語れるのだろうか。
