光を穴蔵の中に隠さない

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ルカによる福音書11章33節
 
だれも、明かりをともして、
それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。
燭台の上に置きます。
入ってきた人たちに、
その光が見えるようにするためです。
 
マタイによる福音書では、
この言葉の直後に、
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
 人々があなたがたの良い行いを見て、
 天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」
(マタイによる福音書15章16節)が続く。
 
この「光」とは、
私たちの「良い行い」のことであると同時に、
ルカの文脈では「自分のなかの光」を指してもいる。
つまり、私たちのうちにある希望、イエスのことである。
 
私たちは存在を通しても行動を通しても、
この世界に対し、
それを通して世界が神の栄光を讃えるような仕方で、
神を証していくよう期待されている。
 
私は「穴蔵の中」に宝を隠すような、
愚かなことをしていないだろうか?
光を輝かせる方法について、
もっとクリエイティブになっても良いかもしれない。
 
 

 

しつこさのゆえ

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ルカによる福音書11章8節
 
あなたがたに言います。
この人は、友だちだからというだけでは、
起きて何かをあげることはないでしょう。
しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、
必要なものを何でもあげるでしょう。
 
 
イエスが祈っているのを見た弟子たちは、
イエスに「祈りを教えてください」(1節)と頼む。
それに対してイエスは、
「主の祈り」を教えられる。
 
主の御名があがめられますように。
御国が来ますように、
日ごとの糧をお与えください、
罪を赦してください。
私たちも赦しますから。
試みに会わせないでください。
 
というアウトラインの、
イエスが教えた祈りのガイダンスである。
それに続けてイエスは、
「寝ている友だちを訪ねて、
 客に出すためのパンをかしてくれと、
 せがむ友人」の話しを語られた。
 
「主の祈り」が祈りの内容だとしたら、
パンをせがむ友人の話は、
「祈りの姿勢」に関するものだと理解出来る。
 
祈りの姿勢についてイエスが最も強調したのが、
「しつこさ」だったというのは意外であり、
驚きでもある。
 
一度断られたときに、
諦めるのではなく、
あくまで頼み続けるのなら、
そのしつこさのゆえなら、
友だちは起きて必要なものを与えるだろう、と。
 
そして有名な、
「求めなさい、そうすれば与えられる。
 探しなさい、そうすれば見出す。
 たたきなさい、そうすれば開かれる。」
という有名な言葉を語られる。(9節)
 
私たちは日々、
神に必要なものを求めている。
誰かが癒やされることのときもある。
神の働きの前進について、
私たち自身の健康や繁栄、日々の糧について、
子どもの健康、子どもが与えられること、
ありとあらゆる必要について、
神に求めている。
 
私たちがそれを得られない意外な理由は、
私たちがあまりにも早く諦めてしまうからかもしれない。
しつこく神に求めることが大切だ。
 
「友だちだからというだけでは何かをあげないが、
 友だちのしつこさのゆえなら、
 必要なものを何でも与える」
というイエスの言い回しは示唆的だ。
 
私たちが神から何かをいただくとき、
英語でEntitlementという、
「資格や立場があるから」だけでは与えられないことがある、
ということだ。神の子どもだからというだけではなく、
神の子どもがしつこく、ねばりづよく、
あくまでも訴え続けるなら、
良い父は必要なものを与えないはずはない、
とイエスはおっしゃっている。
 
いくつかの祈りの課題について、
しつこく祈っていく必要があると語られた。
 

 

 
ルカによる福音書10章27節
 
すると彼は答えた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、
 力を尽くし、知性を尽くして、
 あなたの神、主を愛しなさい』、
 また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』
 とあります。」
 
イエスはこの答えに対し、
「あなたの答えは正しい。
 それを実行しなさい。
 そうすれば、いのちを得ます。」(28節)
と応答された。
 
心、いのち、力、知性を尽くして、
主を愛すると言うことはどういうことか?
全存在をかけて愛するということだ。
では「隣人を自分自身のように愛する」
というのはどういうことか?
 
目の前にいる人が、
「それがまるで自分自身かのように」
愛することだ。
 
「では、私の隣人とは誰ですか?」
と問うた律法の専門家に、
イエスは有名な、
「良きサマリヤ人のたとえ」
をなさる。
 
これは、「今この道ばたで倒れている人は、
自分自身なのだ」という感覚をもち、
まるでそれが自分自身のことのように心配し、
かわいそうにおもったサマリヤ人の話しなので、
「それが自分自身であるかのように愛する」
という解釈は整合性がある。
 
「まるでその人が自分自身であるかのように」
他者を観ることができたなら、
私の人間関係は激変するだろう。
 
虫が好かなかったり、
あまり近寄りたくない人は確かにいる。
しかし、「もしあれが自分自身だったら」
と考えれば、彼らは主観的には、
困窮しており、追い詰められており、
プレッシャーで押しつぶされそうなのかもしれない。
 
そういった想像力こそが、
愛するという資質の最も大切な一角をなす。

 

神の国の原理

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ルカによる福音書9章48節
 
彼らに言われた。
「だれでも、このような子どもを、
 わたしの名のゆえに受け入れる人は、
 わたしを受け入れるのでう。
 また、だれでもわたしを受け入れる人は、
 わたしを遣わされた方を受け入れるのです。
 あなた方皆の中で一番小さい者が、
 一番偉いのです。」
 
 
「一番小さい者が、一番偉い」
というイエスの言葉は、
自己言及のパラドックスを含む。
つまり、「では、一番小さくなろう(偉くなりたいから)」
というのは、問題が転倒しただけで、
もとの「誰が偉いか論争」の次元に戻ってしまうからだ。
 
これは、誰が偉いか、
という次元の言及ではなく、
次数を繰り上げた問題設定として読む必要がある。
 
「一番小さい人が一番偉い」
そのような原理に基づく共同体(社会)、
あるいは人間同士の在り方こそ、
天の御国なのだ、とイエスは言われたのではないだろうか?
 
ワレス・メンデルソンの言葉にこのようなものがある。
「いかなる文化といえども、
社会秩序の上にある人々は相応なものが備えられる。
しかし文化の試金石とは、
底辺の人がどのように扱われるかにかかる」。 
 
この言葉に照らすとき、
神の御国の文化とは、
底辺の人が最も偉い人であるかのように扱われる、
そのような社会なのだ、ということが、
イエスで言いたかったことではなかろうか。
 
パウロもまた教会を論じるとき、
目立たない器官こそ、
ことさらに大事にされる、
と語っている。
 
「一番小さい人」がVIPとして扱われる共同体がこの世にあったなら、
世界はそこに神の国の到来を観る。
 

 

ユダヤの食前の祈り

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ルカによる福音書9章16節
 
そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、
天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、
群衆に配るように弟子たちにお与えになった。
 
 
5千人の給食の箇所で、
イエスは神に感謝を捧げた。
他の福音書では何に対して感謝を献げたのか書かれていないが、
ルカは「それらのゆえに」神をほめたたえた、
と言明している。
 
つまりイエスは2つのパンと5匹の魚「のゆえに」、
神をほめたたえたのである。
 
これらが増加して5千人を養うから、
イエスは神に感謝を捧げたのではない。
これは増加の奇跡の前の出来事なので。
 
「2つのパンと5匹の魚のゆえに、
主よ、あなたをほめたたえます」
というのがイエスの祈った祈りだった。
 
ユダヤの食前の祈りについての記事を、
かつて読んだことがある。
穀物を地から与える神よ、ほめたたえます。
果物をお与えになった神よ、ほめたたえます。
家畜をお造りになった神よ、ほめたたえます。
魚をお造りになった神よ、ほめたたえます。
 
、、、というように、
あらゆる食材のゆえに、
その創造主である神をほめたたえるのが、
ユダヤの食前の祈りだった。
 
それを踏まえるときに、
イエスが2つのパンと5匹の魚のゆえに、
神をほめたたえた、
というのはユダヤの伝統に則ったことだというのがわかる。
 
私もイエスに倣い、
あらゆる食材の創造主である神を、
ほめたたえる祈りを意識してみよう。
「それが与えられたゆえに」感謝するのも素晴らしいが、
「それを作ってくださった創造主」をほめたたえるのは、
また格別な食前の祈りだと思うので。
 
 
【ユダヤの食前の祈り】
主なる神、全宇宙の王なる神はほむべきかな。
あなたは大地からパンを生じさせてくださいました。
 
2.五穀の感謝
主なる神、全宇宙の王なる神はほむべきかな。
あなたは多種多様な糧を造ってくださいました。
 
3.ワインとぶどうジュースの感謝
主なる神、全宇宙の王なる神はほむべきかな。
あなたはワインのために果物を生じさせて下さいました。
 
4.果物の感謝
主なる神、全宇宙の王なる神はほむべきかな。
あなたは果実のなる木々を造ってくださいました。
 
5.野菜の感謝
主なる神、全宇宙の王なる神はほむべきかな。
あなたは地から作物を生じさせて下さいました。
 
6.その他すべての食物の感謝
主なる神、全宇宙の王なる神はほむべきかな。
あなたの御言葉によってすべてのものは創造され、
その恵みの食卓に預かれますから。