1980年の3月4日は火曜日だったのを僕は今でもはっきりと覚えている。
当時小学2年生だった僕は足の病気で“3年間”の入院を宣告され、入院した日が1980年3月4日。
お医者さんから
「3年は入院しないとだめだね~」
と言われたけど、3年という月日がどれほどに長いものなのか、8歳の自分には恐怖と不安でいっぱいだった。
入院の日、病院で突然車いすを押した看護婦さんが近寄ってきた。
「あれ、テルのだったりしてねぇ~♪」
と、冗談っぽくお母さんが言ったが、無情にも看護婦さんは、
「はい、今からこれに乗ってください!3年間かどうかはわからないけど、この先歩くどころか立ってもダメですよ!」
と言った。 途端にお母さんは泣き崩れた。
それでも気丈に振舞っていた僕は、病室のベッドに連れて行かれて、この場所が3年間の生活の場だと聞かされても涙は流さなかった。
「毎日お見舞いに来るからね!」
って言いながら号泣してるお母さんを横目に、
「面会は週に一回、日曜日だけですよ!」
と、看護婦さんは冷たく言い放った。当時、その病気の専門病院が少なく、他県からも子供たちが集まっていたので、毎日お見舞いに来れない人も多く、差別をなくすための措置だったのだと、今になって思う。
それでも泣き崩れるお母さんを安心させたいから、僕は泣かなかった。
しばらくすると、病室に学校の先生が来た。 学校へ行けないから、病室で授業をするのだ。
突然にすべてが変わってしまって、受け入れられない状態のまま授業が始まり、お母さんは帰って行った。
先生が、
「では筆入れを出してください。」
と言ったので、僕は筆入れを探した。
だけど見つからない。おそらく自分の部屋の机の上に忘れてきたのだ。
『(取りにもどらなきゃ!!)』
と思った途端、
『(3年も戻れないんだった・・・)』
そう思った途端から涙があふれ出た。泣いても泣いても涙が止まらなかった。足なんか治らなくていいから、とにかく家に帰りたい。ただそれだけだった。
夜は暗い病室の恐怖におびえながら布団にもぐり、泣きながら指折り次の日曜日を待った。火曜日から日曜日が、途方もなく長かったのを、34年経った今も、はっきりと覚えている。
途方もないと思っていた3年間だけど、子供はすぐにその状況に順応する。3年も経てば、それが当たり前の生活になっていて、退院が決まったその日には、病院の看護婦さんや一緒に生活してた仲間たち、病院の先生と離れるのがさみしくて、入院の時よりも大泣きしていた。
だけど、退院して“普通”の学校に戻ると、掃除の時間でほうきの使い方がわからない。
「そんなこともわかんねぇの?」
と、すぐさまいじめの対象になった。
歩けるようになったけども、曲がってしまい、左右の足の長さが違くなってしまった僕の歩き方は“普通”とは違く、歩き方を馬鹿にされたり“普通”の服装がわからずに
「だせぇ服着てるんじゃねよ!」
と、いじめは加速していった。
自分の入院のせいでうちにはお金がなく、“普通”の服を買ってほしいなど、口が裂けても言えなかった。
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震災から今日で3年が経ちました。
大人になった僕からすれば、3年はあっという間でした。
変わった事といえば、30代から40代になって白髪とシワが増えたぐらいに感じるほどに、周りの状況に変化はありません。
だけど、子供にとっての3年はおそらく、大人の10年ぐらいに感じているはず。
“普通”と言われる生活がどんなものなのか、子供たちは知る術もない。
このままのスピードで復興が進むのであれば、被災地の子供たちは“普通”を知らずに社会に出ることになります。
震災の風化は日々加速し、かけてもらえる温かい言葉はどんどん冷たくなってきています。
僕が幼少期にいじめられたように、当たり前のことができない事を厳しく言われます。
いじめられていた僕は、できない自分が悪いんだと思い、日々暗くなっていきました。
だけど、負けず嫌いなうえに、車いすで鍛えられてた腕っぷしの強さで、
「できねぇモンはできねぇんだよ!歩けねぇモンは歩けねぇんだよ!買えねぇモンは買えねぇんだよ!“普通”なんてわかんねぇだよっ!!!」
と、爆発しました。
すると途端にみんな優しくなっていきました。
震災から3年経ったけど、できないこともまだまだ沢山あります。
“普通”じゃないことだらけです。
だからこそ僕らは、メディアに出ない真実を伝え、声にだし、助けてほしいときは助けを求めながら“普通”の生活を作り上げていくしかないのです。
そして、途方もなく長い時間苦しい生活を強いられてる子供たちのためにも、大人の都合で復興のスピードを落とすことは絶対にいけません。
震災から3年。
たくさんの方々からの力をいただきながら過ごして来れましたこと、心より感謝申し上げます。
そしてこの先も、優しいだけじゃなく厳しくとも、我々が成長していく姿を見守っていただきたく、心よりお願い申し上げます。
世の中のみんなが平等に平和に豊かに暮らせるよう、足りない部分を補い合える世の中。
これからの“普通”は、そんな世の中なのかもしれません。
【小さな復興プロジェクト】 代表:湯浅輝樹
彫刻機が壊れてしまいました。今一度皆様の温かいご支援をお願いいたします!!→ 【READYFOR?】
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