映画でも、漫画でも、テレビでも、動画でも、観ているとやたら聞くのが「愛してる」。
それなのに、日常生活ではまず聞かないし口にすることも無い。
だから意味がよく分からなかった。
だって、だいたい好きっていう意味だろう。大好きかな?
とにかく「愛してる」という言葉でしか表現できない、「愛する」の本当の意味が分からなかった。
考えたことも無いけど。
しかし、最近思うのは「愛する」っていうのは何もしないことじゃないかと思うようになった。
何もしないというのは、本当にそのままにしておくということ。
愛する対象を変えようとしたり、制限しようとしたり、ジャッジしたりしないということだ。
そのものをそのままであることを受け入れるということだ。
許すことに近い気がする。
でも厳密には違うと思う。
それは、「許す」ためにはその前に「判断する」「ジャッジする」という段階を踏むこと。
そして一度「有罪である」とか「悪い」などといったラベルを貼る必要がある。
そうしないと「許せない」。
「許す」というのは、一度張った「有罪である」とか「悪い」といったラベルをはがすことだからだ。
これに対して「愛する」は判断やジャッジもしない、何もしないこと、ただそのものをそのまま受け入れることだから
そういう意味では全然違うと言える。
でも、ラベルを貼って、またそれをはがす作業は、自分の頭の中で人知れず勝手にやっていることだから、
本人以外は誰にも分からないので、見た目は「許す」も「愛する」も同じに見える。
そういうことじゃないかと思う。
だから、ドラマの中で、ことさら「愛してる」とか言うのは変な話だと思う。
変だけど、「愛してる」とは「あなたをそのまま受け入れています」ということだから言わないと分からないとも思う。
だから、ここぞという大事なシーンでしか「愛してる」と言わないのだろう。
だから、案外全く見ず知らずの人は「愛せる」けど、
家族や友人、会社の同僚などといった身近な人のことは「愛せない」ように感じる。
でも、これは勘違いだと思う。
本当は自分が気を許している人ほど、構えずに気を許しているので、ストレートに自分の感情をぶつけられるのだ。
だから、自分の本心が出やすい。
「あの人のここが許せない」とか「あの人のここが間違っている」とか「あの人の欠点はここ」とか。
そう思うのは、実は自分ルール、つまり自分を律するために自分で決めたルールを他人に適用しているだけのことで、
自分の中にあって、許せない、嫌いな部分を他人に投影して観ているだけなのだ。
そんあことは気を許しているから出来ることで、一種の甘えと言っても良いと思う。
普通は見ず知らずの他人には気を許していないから、そういう投影をしないので「判断してない」ように見えるだけ。
実際は「判断しよう」としてウズウズしている。
だから、全くの他人でも、最も重要な自分ルールを破った途端に敵視するのだ。
こう考えると、「愛する」とはこういうことのようだ。
つまり、
「自分ルールを適用しないこと」
ジャッジされない状態って、本当に生き易く感じると思う。
だからジャッジして来ない相手には好意を抱き易い。
赤ちゃんや動物が多くの人に好かれるのは、
赤ちゃんや動物は他人をジャッジしないからだろうと思っている。
赤ちゃんや動物はみんなを愛しているから、みんなからも愛される。
そう言うことも出来るだろう。