自分世界探検家のブログ -9ページ目

自分世界探検家のブログ

人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

映画でも、漫画でも、テレビでも、動画でも、観ているとやたら聞くのが「愛してる」。

 

それなのに、日常生活ではまず聞かないし口にすることも無い。

 

だから意味がよく分からなかった。

 

だって、だいたい好きっていう意味だろう。大好きかな?

とにかく「愛してる」という言葉でしか表現できない、「愛する」の本当の意味が分からなかった。

考えたことも無いけど。

 

 

しかし、最近思うのは「愛する」っていうのは何もしないことじゃないかと思うようになった。

 

何もしないというのは、本当にそのままにしておくということ。

愛する対象を変えようとしたり、制限しようとしたり、ジャッジしたりしないということだ。

 

そのものをそのままであることを受け入れるということだ。

 

許すことに近い気がする。

でも厳密には違うと思う。

それは、「許す」ためにはその前に「判断する」「ジャッジする」という段階を踏むこと。

そして一度「有罪である」とか「悪い」などといったラベルを貼る必要がある。

そうしないと「許せない」。

「許す」というのは、一度張った「有罪である」とか「悪い」といったラベルをはがすことだからだ。

 

 

これに対して「愛する」は判断やジャッジもしない、何もしないこと、ただそのものをそのまま受け入れることだから

そういう意味では全然違うと言える。

でも、ラベルを貼って、またそれをはがす作業は、自分の頭の中で人知れず勝手にやっていることだから、

本人以外は誰にも分からないので、見た目は「許す」も「愛する」も同じに見える。

 

そういうことじゃないかと思う。

 

だから、ドラマの中で、ことさら「愛してる」とか言うのは変な話だと思う。

変だけど、「愛してる」とは「あなたをそのまま受け入れています」ということだから言わないと分からないとも思う。

だから、ここぞという大事なシーンでしか「愛してる」と言わないのだろう。

 

 

だから、案外全く見ず知らずの人は「愛せる」けど、

家族や友人、会社の同僚などといった身近な人のことは「愛せない」ように感じる。

 

でも、これは勘違いだと思う。

 

本当は自分が気を許している人ほど、構えずに気を許しているので、ストレートに自分の感情をぶつけられるのだ。

だから、自分の本心が出やすい。

「あの人のここが許せない」とか「あの人のここが間違っている」とか「あの人の欠点はここ」とか。

 

そう思うのは、実は自分ルール、つまり自分を律するために自分で決めたルールを他人に適用しているだけのことで、

自分の中にあって、許せない、嫌いな部分を他人に投影して観ているだけなのだ。

そんあことは気を許しているから出来ることで、一種の甘えと言っても良いと思う。

 

普通は見ず知らずの他人には気を許していないから、そういう投影をしないので「判断してない」ように見えるだけ。

実際は「判断しよう」としてウズウズしている。

 

だから、全くの他人でも、最も重要な自分ルールを破った途端に敵視するのだ。

 

こう考えると、「愛する」とはこういうことのようだ。

 

つまり、

「自分ルールを適用しないこと」

 

ジャッジされない状態って、本当に生き易く感じると思う。

だからジャッジして来ない相手には好意を抱き易い。

 

赤ちゃんや動物が多くの人に好かれるのは、

赤ちゃんや動物は他人をジャッジしないからだろうと思っている。

 

赤ちゃんや動物はみんなを愛しているから、みんなからも愛される。

そう言うことも出来るだろう。