普通に出来ることを普通にしているだけで幸せを感じるようになった、
というようなことを書いた。
それだけ普通に出来ていることが難しく、しかも意識することなく行えているということだ。
そのひとつとして味がある。
味覚と脳だけあれば味わえる訳ではなさそうだ。
五感全てを使って、今までの人生から得た経験というか、記憶まで駆使して初めて味が現れるようだ。
色や形が判別出来る。
触った感触が分かる。
臭いがする。
音が聞こえる。
真っ直ぐ歩ける。
景色がグラグラ揺れないで観られる。
常に痛かったりや痒かったりしない。
食欲が感じられる。
満腹感が感じられる。
眠れる。
起きられる。
こういったことがどれだけ高度で難しいことなのかが、出来なくなって初めて感じられた。
無意識で出来たことを意識的に、自分で考えてやろうとしても出来ないか、出来ても非常に苦労するからだ。
色や形が判別出来るか出来ないかや、手や腕を思い通りに動かせるか動かせないかの差に比べたら、
その延長線上にある技能、字を書く、絵を描く、キーボードを叩くというようなことが出来るか出来ないかの差はかなり小さいと感じる。
数字で例えれば、0と1の差と、1.000と1.001の差というくらい違う気がする。
こう書いて来て思ったけど、
実は生きているかいないかの差に比べたら、0と1の差すら小さいものなのかも知れない。
病気で不自由になる前のぼくは、他人との0.001の差が絶望的な差のように感じていたと思う。
他人と比べて自分がとても劣っているように感じていた。
でも、お互い生きているなら、そんな差に目くじらを立ててもしょうがないような気がする。
自分は生きているだけで十分恵まれていると思えたら、
生きている人はみんな十分恵まれていると思えるんじゃないだろうか。
そうだとしたら、それぞれの人が自分の好きなように与えられた恵み=命を楽しめる気がする。
自分の与えられた恵みを楽しめる人は、他人が恵みを楽しんでいることも喜べるんじゃないだろうか。
それこそが豊かな在り方、豊かな世界なのかな?と思う。
