自分が知っている情報はほとんど伝聞で、それが本当だと言えるのだろうか?ということを書いた。
会話でも文章でも写真でも動画や映画でも、
制作した人や人達が居ることは当たり前だ。
人である以上、何かしらの偏りを持っているだろう。
それは信仰かも知れないし、偏見かも知れないし、文化的な制約かも知れないし、思い込みかも知れない。
そんな人が発信する情報もまた何かしらの偏りが有るのは避けられない。
また制作者は自分の立場から見て、制作者の目が届く範囲の情報から取捨選択して表現する。
そのこと自体がまた情報に偏りを持たせてしまうだろう。
例えば戦争報道。
特に戦争をしている国の人であれば、自国のことしか観察出来ないし、
報道内容も、自然に自国に肩入れする偏った内容になることはしょうがないだろう。
以上のようなことから人が発信する情報は、事実だと考えるのは危ないと思う。
起こった事柄だけであれば、情報源が異なる複数の情報に当たることで概要は掴めるのかも知れない。
しかし、それが何故起こったのか?当事者たちは何を思ったり考えたりしたのか?
といった突っ込んだ内容を知ることは無理かもしれない。
これが事実だと確信したとしても、それも自分の考えに過ぎないだろう。
複数の人々が同じ事柄を傍観したとしても、同じことを感じることはないだろう。
同じ映画を観ても感想がばらつくのと同じ事だと思う。
また、実際の事柄は映画と違ってストーリーが分かり易いように展開しない。音楽も効果音も無い。
傍観者の判断次第でどう捉えるか変わってしまう。
このように、出来事をなるべく正確に伝えようとしても情報が偏ってしまう。
情報を得る場合、情報発信者が正確に伝えようとしているかどうかは分からない。
むしろ、意図的に間違った情報を広めようとされたら、それを見破るのは難しいような気がする。
特に、情報の発信者が複数居て、それらが結束して嘘を吐いていたら分からないんじゃないか?
ニュースが信じられないとしたら、ニュースの蓄積である歴史はどうなのか?
日本史では○○幕府というのがいろいろ出て来る。
しかし、正史で幕府とされている勢力しか居なかったのだろうか?
記録が無いからと言ってそれらが無かったことにするのは歴史を捻じ曲げる行為だと思う。
本当は同時にいくつかの幕府や、別の系統の天皇も居た可能性もあると思う。
歴史の何処かで滅ぼされ、記録から抹消されたのかも知れない。
記録は残っていても、研究機関がそれらを公表しないとか公表されている文書を偽書とすることで、正史以外の情報を隠蔽しているかも知れない。
そういう可能性だって考えられるという話だ。
同じ勢力の中でも権力争いは有ったらしいから、
最終的に権力を握った為政者は、それまでの経緯を自分の思うように脚色したことだって考え得る。
複数の書物が同じ事柄について言及していたら、それは実際に起こったことと言えそうな気がするが、
それら全ての資料が捏造ではないということは出来るのだろうか?
疑い出すとキリが無い。
自分はいろいろ知っていると思っていたけど、その大部分が伝聞でしかなかった。
今まで全て教わった通り、提供された情報を鵜呑みにして一切疑わなかっただけ。
それは知っているとは言えるだろうけど、分かっているとは言えない気がする。
苦しむこと、悩むことが辛いということは他人から聞いて知ることは出来る。
でも、それが自分に起こったらどういう感じなのか?
それは実際に経験しないと分からないし、その感覚を他人に正確に伝えることは出来ないだろう。
そういう意味において、歴史とは娯楽の1つのジャンルだと思う。