以前会社勤めをしてた頃はいくつか趣味を持っていた。
しかし、適応障害になって、それまで楽しかった趣味のほとんどに興味が持てなくなった。
お笑いはその最たるものだった。
それまで爆笑していた漫才やコントといったものが全く面白く感じられなくなった。
最初は、これは適応障害の症状のせいだと思っていた。
適応障害ではなくなったらまた元に戻るだろうと構えていた。
まあ、適応障害になったらそれどころではなかったという方が適当だろう。
自分の中の何かが壊れてしまってそれまで普通に出来ていたことが出来なくなってしまい、途方に暮れているような状態だからだ。
その後、主治医から寛解と診断されても(適応障害は完治とは言わず寛解という。症状が治まったという位の意味だろう。)、
相変わらずお笑いは面白いと感じられなかった。
それでもお笑いに期待している部分が有ったようで、時々そういう番組を観たりはしていた。
しかし、どうもピンと来ない。
ボケてツッコんだのを見てもだから何?という感じ。
しばらくそんな状態だったが、だんだん何で面白いと思わないのか分かって来た。
ぼくの中の「普通」とか「常識」の概念が変わってしまったからだ。
つまり、お笑いが面白かった頃は、
「普通」とか「常識」というは、みんな共通の絶対的な社会規範だと思っていた。
「普通」とか「常識」の基準や範囲が自分の外に在って、自分はいつもそれに照らしながら生活している感じと言うか。
自分の人生の基盤がそこに在ると信じていたように感じる。
だからそれから外れた言動(ボケ)に緊張し、
それをおかしいと指摘されている(ツッコミ)ことで安心し、それが笑いにつながったのだと思う。
しかし、お笑いが面白くなくなったのは、
「普通」とか「常識」というは、自分の考えだと思うようになってからだ。
だから一人一人違う基準や範囲を信じていて、人同士でも個人差はあるし、ましてや人間以外の生き物にはそんな基準や範囲すら存在しないかも知れないと思うようになった。
自分の人生の基盤を見失っているような感じがする。
そんな状態だからボケを規定する基準や範囲がないからボケと感じないのだろう。
ボケているのに「そういうことも有るかも知れない」とか「この人はそういう人なんだな」と受け止めたら面白くも何ともないのだ。
そういう判断をしていては笑えない。
そういう意味においてお笑いを観るにあたっては考えてはいけないのかも知れない。
条件反射で笑う体勢で望む必要があると言うか。
芸人には天然の人も居るだろうし、「普通」とか「常識」の基準や範囲が一般的なそれから大きく外れている人も居るのかも知れないけど、それだけでは笑いにならないだろう。あまりにぶっ飛んだボケは狂気に近く、怖く感じる。
それを指摘する人がいるから大衆は条件反射的に安心して笑えるのだと思う。
だから、お笑い芸人は常識的な判断が出来るから笑いを生み出すことが出来るのだと思う。