お笑い芸人は常識的な判断が出来るから笑いを生み出すことが出来る、
ということを書いた。
そもそも常識的な判断がなぜ必要なのか?と言えば、社会に適合して生活して行くためだろう。
より快適に生きて行くためには社会の一員として、他の人々からつまはじきに合わないようにすることが得策だからだろう。
それでも個々人の常識には個人差が生まれることはしょうがないだろう。
そうは言っても個々の常識が大きくずれていては社会が成り立たないから、誰にも共通する基準や範囲は有る。
自然法則とか公序良俗やマナーのような一般常識と言われるような範囲だ。
あるいは、その場に居合わせた人だけの共通認識を設定する場合もあるだろう。
上司と部下や医者と患者、刑事と犯人みたいな設定がこれに当たるだろう。
一般的に人は、TPOによってこれらの常識的な判断の基準を切り替えて、言動選択の判断をしているようだ。
それを半ば無意識でやっている。だから顕在意識ではそういうことをやっていることも認識していないことも多いだろう。
しかし、実際はそういう判断をほとんど不断にやり続けていて、それが現代社会に生きる上での緊張を生んでいる面は有ると思う。
自分で常識的な判断をし過ぎているのに、それに気付いていない。
そして時々そういう無意識の判断がNGを出すとそれが違和感や嫌悪感として感じられるのだろう。
自分の外で何が起ころうと、判断さえしなければ、あるいは判断してもOKを出せば違和感や嫌悪感は感じられない。
しかし、そういう人の常識の範囲は他の人よりも広いことになるので、他の人から見たら非常識な言動をすることも多くなるだろう。それでは常識的な判断をしている意味が無くなってしまう。
そういう状態かずにストレスを感じている。
あるいは自分の顕在意識でやろうとしていることが自分の無意識に行っている常識的な判断ではNGという場合もストレスを感じる気がする。
そんな状態でお笑いを観ることでストレスが緩和するという効果が有る気がする。
自分が無意識でNGを出しているような言動をボケ役がしているのを目にして、それをツッコミが指摘したり訂正したりするのを観て、無意識での常識的判断がNGを出しすぐにOKに変わる。
それによって緊張と安心が短時間に経験されてそれが笑うという反応につながるのではないかと思う。
お笑いが好きな人というのは、無意識で行っている常識的判断の判断基準が厳しい人なのかも知れない。
この基準は他人だけでは無くて自分にも適用される。
他人は別れれば常識的判断の対象ではなくなるけど、自分は常にその対象なので結果的に自分を厳しい目で判断し続けることになるだろう。
そうなると、常に高いストレスにさらされることになると思う。
このストレスを軽減するために、お笑いを頻繁に観たくなるのではないかと思う。
でも、無意識の常識的判断がストレスを生むとして、そのストレスから逃れるための方法は他にも有る気がする。
何かに熱中したり、常識的判断よりも高いストレスを生む状況に身を置いたり、あるいは逆に自分が正常な判断が出来ない状態にするという具合に。
どの方法を選ぶか?好むか?というのも、実は無意識に行っている常識的判断の結果に従っているだけなのかも知れない。