最近はぼくの中で風呂掃除がブームだった。
我ながら不思議だ。
以前は掃除自体が嫌いだったのに、どうしてそうなったのだろう?
前にそのことについて考えた。
この時書いたのはとても抽象的な捉え方だ。
食わず嫌いを止められた理由と言うか。
そうではなくて、より具体的な理由も有るように感じる。
それはコントロール出来る喜びじゃないか?と思う。
風呂の汚れを認識した場合、得体の知れない異物だと思うと触れたくないし、出来れば意識したくないと感じる。
そうすると見ていながら、見ていないことにするとか、その汚れを掃除しなくても生活には支障がないとか、風呂掃除は自分の役割ではないと考えたりする。
つまり、自分の世界の要素と考えないで汚れという存在を無視しようとするのだろう。
実際に存在しても、その存在を認めなければそれはその人にとっては存在しないのと同じなのだ。
自分にとって都合の悪い物や事柄を無い事にするというのはこのことだろう。
ぼくにとって、風呂の汚れは多種多様でどう対処したら良いのか分からない物だった。
黒かったりネバネバしてたり毛だったりを全部一緒くたに汚れとして見ていたので、訳の分からない掴みどころのない物として認識していたと思う。
だから対処が出来ないと決め付けていた。それに汚いから触りたくないみたいな感情も、対処しない態度に拍車をかけていた。
それが、実は汚れにもカビや髪の毛や水アカ、石鹸カス、カルキなどの種類があって、その種類別に洗剤を使い分ければ綺麗になると知って風呂汚れに対する認識が変わった。
どの洗剤がどの汚れを落とすのか?という知識を知って、それを実際に試すのが面白くなった。
それは、風呂汚れという得体の知れない謎の物体をコントロールできるようになったという感じだったと思う。
今は風呂の汚れを以前ほど汚いと感じないのも不思議だ。
謎の物体の正体が分かって、分かった!となった途端に脅威ではなくなるのだろう。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」というのはこんな心境なのかも知れない。