正しく考えたら幸せになれると信じている。
ちょっと違うな。
正しく考えることが正義だという感じの方が近いかな。今もそうかも知れない。
ここではそれを思考至上主義と表現する。
正しく考えるというのは、ぼくの中では誰が考えてもそうなるという考え方だと思っているようだ。
思っているようだと書いたのは、自分でもその辺がはっきりしないからだ。
思考というのは無限だと信じていた。
ただ、世界には法則のようなものがあって、それを知っているレベルによって、思考が使えるレベルが上がるのだと。
全ては説明可能なのだが、解明されていない謎があるのは、未だ人類が知らない世界の法則があるからだろうと思っていた。
思考を使いこなせる度合いに個人差があるのは、世界の法則の修得レベルの個人差の現れだと。
だから、思考能力を上げるには世界の法則の修得レベルを上げれば良い訳だ。
その世界の法則の修得レベルを上げるにはどうすればいいか?と言えば、勉強することがその手段のひとつだと思っていた。
頭の良い人というのは、世界の法則が自然と分かってしまう才能のようなものを持っているのだろうと想像していた。
極端に言えば、思考出来るレベルでその人の価値が決まると思っていた。
思考出来るレベル=頭の良さと人の価値を混同しているというのは、自分は思考だと思っていたのだろう。
こういった、思考至上主義に傾倒している自分に気付いてすらいなかった。
それくらいそれがぼくにとっては自然で当たり前、みんなそういう風に思っているはずだと信じていた。
そう信じていることにも気付いていなかった。
しかし、生きていてだんだん幸せが感じられなくなって行った。
何かおかしいと感じるようになって行くのだが、何がどうおかしいのかは分からなかった。
しかし、自分が実際はどのように思考を使っているかを観察していていろいろ気付いて来た。
まず自分が思考至上主義だと気付いた。
そして思考とは、自分が見聞き経験したことを概念化して記号化して名前を付けることで理解したとしているだけだと気付いた。
そしてその名前と概念の内容を説明出来たり、その名前を使って自分の意見は披露できたりしたら分かっていると思われてるだけなのだ。
つまり思考とはその性格上、限られた範囲の中でしか効力を発揮しない。
そのために未知のもの、見聞き経験出来ても言語化出来ないものは思考の対象に出来ない。
世界にある物や出来事などに名前を付けて概念化した後に、それらの関係性の仮説を立てて行く。
そしてその仮説が論理的に筋道が通っていて、現実に起こっている事との間に乖離が無い場合に、その関係性が解明で来たとするのだ。
これはつまり、実際の世界とは別に、思考の世界を構築している訳で、つまり実際とは違う仮想の世界を実際に近付けようとしているようなものだと思う。
そういうことをほぼ全ての人がやっているのだろう。
人は実際の世界と自分の仮想世界の両方に生きているのだ。
そして、思考にはジャッジが付きものだ。
善悪や正誤、損得というように、全てをジャッジして判別する。
正しかったり、得をすることを自分の言動の選択判断の基準にしたりする。
その時の自分の気持ちは顧みられていない。
これが常態化すると自分の本当の気持ちが分からなくなったりするのだ。
だから思考を自分だと思ってしまうのだろう。
こういう状態は、たぶん人として、生き物として正常な在り方ではないと思うようになった。
本来自分の気持ちや欲求を満たすツールが思考だろう。
そのツールでの判断結果が良くなるように振る舞うというのは主客転倒だからだ。
損してもやりたいことをやったり、間違っていても言いたいことを言うのが本来の人の在り方だと思う。
損しないこと、間違わないことを優先するのはおかしいだろう。
何の為に生きているのか分からなくなったり、生きている気がしないというのは、思考至上主義者の当然のいくすえなのかも知れない。