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自分世界探検家のブログ

人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

思考に頼り過ぎるのは不自然なんじゃないかということ書いた。

生き方を変えるというのは難しいと感じる。

 

それが、仕事や住んでいる場所を変えるような環境的変化ではなく、むしろ環境は変えずに自分の内的生活様式を変えるということだと尚更だろう。

 

つまり、今まで思考を頼りに生きて来た人にとって、思考の呪縛から逃れることはとても難しい気がする。

 

「思考の呪縛から逃れるための正解は何か?」と考えて、「また考えてしまった」と自分を責めたり。

思考に頼って生きているから、思考に頼らないで生きるとはどういうことか分からない。

だから「考えちゃいけない」という所に一回行ってしまって、どうしようもなくなっている状態だ。

「じゃあどうすればいいんだ!?」

 

思考に頼り過ぎるのを止めるというのは、思考を止めることではない。

だいたい、人は思考しないで生きて行くことは出来ないだろう。

 

思考至上主義というのは、自分の気持ちよりも思考での判断を常に優先するという在り方だ。

正義や得すること、あるいは損しないこと、有利な方、楽な方を常に選ぶのではなく、時にはそういったことを全て無視してやりたいと感じることを選ぶということ。

 

無駄だけど、散歩したかったら散歩する。

健康には良いけど、散歩したくなかったら散歩しない。

 

やらなきゃいけないことがあるけど、眠たいので寝る。

眠たいけど、やりたいことをやる。

 

急いでいるけど、気になるので道に迷っている人に道を教えてあげる。

急いでないけど、気が乗らないので道に迷っている人の相手をしない。

 

思考で決めた枠組みでは、「毎日散歩する」みたいになる。

自由度が少ない。まあ「晴れの日に限る」くらいの条件付けはするけど、「気が乗らない日はやらない」いうのはダメだ。

それではルール化する意味が無いとなってしまう。

ルールとは、以前決めたことを遵守することによって言動に統一性を持たせる、という概念だから。

 

思考至上主義者とはそういう統一性を重んじるので、基本的に思い付き的な選択が出来ない。

出来ないって言ってもそこは人間だからするだろう。そういう場合はそのことを悪いことだと考える。

やるべきこと、やった方がいいことは、自分がやりたくないと思ってもやるべきだと考えるのだ。

やりたくない気持ちが強くて押し退けられない場合には葛藤したり自分を責めたりする。

 

この場合は気持ちと考えのどちらかを選択するという感じではなく、正しい考えを自分に強いる感じ。

やるかやらないかを選択するとなると、思考は素早く正しい考えを用意して即座に強いて来るので、自分の気持ちを確認する余地もなく正しい考えを選んでいる感じになる。

 

最初に思い付いたことをやらなきゃいけない、気持ち悪いみたいな感じだろうか。

ちょっと強迫観念的というか、潔癖症的というか。

 

 

思考が重要視しているのは統一性や普遍性なのかも知れない。

イレギュラや変化を嫌うと言うか。

それは統一性や普遍性が思考に特性だからだと思う。

 

生きているものは常に動いている、変化し続けている。

そうじゃないものは死んでいるか生きていない。

 

変化しないということが思考が生きていないことの証だと思う。

 

だから思考至上主義は生きているものよりも生きていないものを重用する在り方と言える。

自分をルールの方に合わせるというのはそういうことだろう。

 

だから無理が生じて当たり前だと思う。

その被害は常に生きている方が被るしかない。

 

生きているものが辛くならないためには、生きているものを生きていないものよりも優先するという在り方でないと無理だろう。

 

思考はするけど、その結果と自分の気持ちが合わなければ、自分の気持ちを優先することを選べる精神的な余裕がある在り方。

 

継続すると決めたことをやれなかった、気分が乗らなくてやらなかった自分を責めて、失敗したと考えるのではなく、気持ちを切り替えてまた明日から始められる在り方。あるいは止められる在り方。

 

 

一番の問題は自分を責めることだと思うから、それさえなければ何でも良いのかも知れない。

 

そして、自分を責めるのは常に自分の言動や気持ちよりも思考を優先している時だと思う。

 

義務や責任、効率、役割、倫理、法律、立場などそういったものは全部概念で、思考に属するものだから。

 

ぼくたちは社会の中で生きている以上、その秩序を乱してはいけないとは思う。

 

しかし、自分の頭の中の世界では本来自由のはずだ。

それなのに、頭の中の世界でも自分を責めていては辛くて当たり前だろう。

 

その理由は常に、思考の枠組みから外れた自分の言動や気持ちによって非常事態がもたらされたことだと思う。

ほとんどが怒られたとか嫌われたとか損したとか、何らかの不利益を被ったという経験だろう。

その時点で十分辛いのだから、その上自分を責めなくても良いのではないだろうか?

 

同じ過ちをしないように反省はしても、不利益を被った自分を責める必要は無い気がする。