失敗をしても自分を責める必要はないということを書いた。
失敗をしたら自分を責める人は、同じことを他人にもしている。
それを言動に出す人もいるけど、出さない人もいる。
いずれにしても、他人を責めていることは自分には分かるだろう。
思考は統一性と普遍性が特性だから当然だ。
自分にはこのルールを強いるけど他人には強いないと考えても無理だと言うこと。
せいぜいそのルールを破った他人を見つけても黙っていることぐらいしか出来ない。
あいつは悪人だとか、人として劣っているとか、嫌な奴だとか考えているものだろう。
同じことは逆の場合にも言えると思う。
例えば、何か上手く出来ない人を見ても責める気持ちが出て来ない人はいるだろう。
頑張っているな、とか大変そうだなとか、努力して偉いなとか思う。
そういう人は自分が失敗しても同じように自分を応援するようなことを思う。
こういう人は、ルールを持っていない訳では無いだろう。それでは社会に適応出来ない。
そうじゃなくて、ルールよりも現実の方が重要だと思っているのだろう。
ルールによる判断はしていて、
「あの人は出来ていない」
とは思うけど、その結果でその人を責めるか責めないか?という判断をしていて、責めないという結果が出ているのだと思う。
こういった判断は非常に速いので自分でも認識出来ない。ましてや、他人の判断なんて分かりようもないから推測だけど。
他人はさて置き、ぼくの中には、失敗した他人は幼児や病人など何らかの事情がある人以外は責めなければいけない、みたいな考えがあるような気がする。
深い考えが有る訳では無く、なんとなくそういうものだと思っている。
理屈を付ければ、そうして他人の目を気にすることで世界の秩序が守られている、みたいな感じが有る。
秩序が守られていると言うより今の状態で世界が成立しているくらいの感じ。
だから、自分が失敗した時に責められてもしょうがないみたいな感じもあって、だからこそ責められることを怖れて慎重に行動しているみたいな感じがするのだ。自分で自分を監視していると言うか。
おそらくこの自分監視は常に行っていて、自分でやっておきながらそのせいで安心出来ないでいる感じがする。
自分が失敗したら必ず責められるなんてあり得ないのに、そう考えているのは自分監視に引っかかって自責の念に駆られることを怖れている気がして来た。
これはぼくだけの事ではないんじゃないか?
多くの日本人は自分を監視していて、何か失敗したら自責の念に駆られるみたいなことをしているんじゃないだろうか。
これは一つの癖だと思う。
この癖によって秩序や世界が守られていると信じている気がするけど、それは本当だろうか?
そうだとしても、自分の負荷が大き過ぎる在り方のように思う。そういう意味において、ぼくにとっては悪癖だと感じる。
そういう悪癖からは卒業したいと思うな~