世界を信じられない、ではなく、
世界は信用できないと信じているのだろうと書いた。
信じられない、という表現だと、
本当は信じたくても、外的な要因で信じることが出来ないというニュアンスが有る気がする。
つまり、自分が信じないことを選んだんじゃなくて、選ばされた、みたいな感じ。
そういう人は、おそらく拗ねているんだと思う。
何を隠そう、ぼくがそうだったからそう思うのだ。
もしかしたら、今もまだ拗ねているかも知れない。
その元には、自分は非力で、自分以外の強力な何かの存在の犠牲になったとか、
影響下から出られない、みたいに信じていると思う。
自分より強力な存在は何か?
親なのか社会なのか世界なのか神なのか、それ以外の何かなのかは人それぞれだろう。
何にしろ、自分は非力で自分以外の何かの影響を受けていると信じていることは共通していると思う。
ぼくは。「拗ねる」の根底にはこの無力感が有るのではないか?と思っている。
拗ねている人は世界は信用できないと思っていると思う。世界は自分に対して敵対的だと。
だから、世界は自分の力で生き抜かなければいけないと考えるから、
成功の確率の低いことをするのはリスクが大きいと考える。
失敗する訳にはいかないと思うので、自分のやりたいことでも気軽には出来なくなってしまう。
チャレンジ出来ない。冒険が出来ないのだ。
それは自分が思ったように生きるのが非常に難しいということを意味しているだろう。
「いや、人生はやりたいことをやる前に、やるべきことをやるべきだろう。」
そういう考え方もあるだろう。
ぼくは、それこそが拗ねた人の考えだと思うのだ。
別に拗ねることが悪いとは思わない。
それどころか、何か自分にとってメリットがあるから拗ねるのだと思う。
拗ねることで自分にはどんなメリットが有るのだろう?
それこそ、チャレンジや挑戦をしなくて済む。
つまり怖い思いをしないで済むのだ。
しかし、それは自分から積極的には動かないで済む、そういうエクスキューズを自分の顕在意識に与えられるというだけの話。
たぶんだけど、自分の潜在意識はそう思っていることは少ないのだと思う。
つまり、自分はチャレンジや挑戦を避けて生きていても、
チャレンジや挑戦をする流れになることが有るからだ。
そうなっても相変わらず、他人や自分以外の何かのせいにして、
納得しないままそのチャレンジや挑戦に臨むのだろう。
書いていて思ったけど、おそらくチャレンジや冒険は本来楽しいものなんじゃないだろうか?
だから、嫌々でも他人のせいにしていたとしても、チャレンジや冒険をしている内に楽しくなって来るんじゃないか?と思う。
ぼくは拗ねていたタイプなのでそんな風には思ったことはない。ただひたすら怖いだけ。
そして、それが拗ねることを止めるきっかけになったりするのかも知れない。
そして、拗ねるのを止めて、それまではしなかった行動を採ることによってどのような変化が訪れるのだろうか?
どのようなメリットが見込めるのか?
たぶん、それは経験の質量ともに劇的に変化するような気がする。
それは、拗ねることで得られるメリットと比べてより利益が多いのではないか?だったら、リスクを侵す価値があるのではないだろうか?
なぜか今、そんなことを思った。