前のブログで、責める気持ちが問題を作ることにつて書いた。
責める気持ちの矛先が他人に向くと、それは他人の問題。
自分に向くと自分の問題だ。
この責めている存在は、自分(それぞれの個人)の中の一部で、
その存在自体は絶対に正しいと思っている。
「絶対に正しい」と思っているのは自分だ。
つまり、自分が全部決めている。自分が一番正しいと信じている。
あたかも世界最高の裁判官だ。しかし、そのとこに気付いていない。
しかも、実際に絶対的に正しい訳でも無い。裁判官と言うより独裁者か。みんな独裁者を抱えている。
これってたぶん、全部思考の仕業。
仕業と言うか、思考の出来る範囲で、最大限の努力でやっと事柄を上手く回しているフリをしているんだと思う。
しかしそれは思考の手に余る仕事なのだ。だから、役割りを果たせていない。破綻している。
その破綻している部分をどうするか?
それが謝罪や弁償という儀式が開発された理由のような気がする。
何が起こったとしても責めたい「気落ち」にならなければ良いのだ。気にならなければOK。気が済めばOK。
これは急にロジック的では無い判断基準になっている。
つまり、思考では上手く処理出来なかったから、後処理を「気持ち」に任せちゃっているのだと思う。
例えば、弁明は責める気持ちを湧かせる原因の解釈を変えようと言う試みかな。
弁償というのは、損なわれた被害者の気持ちを何かで補填しようという試みだと感じる。
損得の面でも、イーブンにする努力をするので責めないでね、ということだろう。
弁明や弁償。
これらの対応は、今では日常的に当たり前に行われているだろう。
だから、これは常識で、正しいこと、みたいに信じている人も多いと思う。
でも、実はこれはどちらかと言えば儀式に近いと感じる。
何となくだけど、呪いを解く感覚に近いんじゃないだろうか?
損得勘定も働いている気がする。
他人の気持ちを変えようとすることを一生懸命やっているのだ。
見方によっては、全く無駄なことかも知れない。
他人や自分のミスをそのまま許せるように成れたら、
社会はもっと住み易くなるように感じる。より自由に振る舞える社会に成る気がする。
その人をそのままで受け入れるということに通じる気がする。
まあ、一足飛びにそういう社会を求める前に、ぼく自身がそう成れたらきっと楽だろうな、と思う。
想定した理想の社会に人の言動を合わせようとする時代から、
自然な人の在り方に社会を合わせる時代に変わろうとしてる気がする。