出来事が問題ではなくて、それを問題だと考えることで問題になる。
それは分かったつもりだった。
しかし、ぼくの場合どういうことか?というのが腑に落ちていなかった。
やっぱり分かっていなかったのだ。
ぼくの場合、何かが起こって、そのことで責める気持が湧いたら問題ということになると思う。
このとき責める対象は、他人でも自分でも一緒だ。
責める気持ちが湧いたら、もうそれは問題と言えるだろう。
責めるというのは、問題の原因は何か?と考え、
その原因に思い至ったときに、その原因に対してそのままにして置いてはいけない、変える必要が有ると思うことだろう。
実際には起こったことは変えられないし、
厳密に言えば残っているのは、その出来事に関する記憶だけだと思う。
変えようとしている対象は、
起こった出来事でも出来事の記憶でもなくて、その出来事に対する解釈や判断と感じた感情や気持ちだろう。
解釈や判断を受けて出て来るのが最終的には感じた感情や気持ちだと思う。
何が起こったとしても責めたくならなければ良いのだ。気にならなければOK。気が済めばOK。
あの時に、こういうことを言った(やった)のには、こういう理由があってしょうがなかったとか、
あの時は、今とは事情が違って、あの対応が最善だと思われていたとか。
これは加害者側に悪意も過失も無いということを訴えて、被害者に許してもらおうという試みだと思う。
弁明は、責める気持ちを湧かせる原因の解釈を変えようと言う試みかな。
弁償というのは、損なわれた被害者の気持ちを何かで補填しようという試みだと感じる。
損得の面でも、イーブンにする努力をするので責めないでね、ということだろう。