窮地に陥るということがある。
そういう時に自己憐憫に陥っていると、辛いばかりでろくな事が無い。
自己憐憫になるのは、そのことを受け入れていなくて、また、受け入れる気も無い状態だと思う。
自分が被害者という意識。
それは自分は弱く、選択権も無く、困っている状況を打開することが自力では無理と信じている状態。
自分を受け入れていないとも言えると思う。自分を信じていない、自信が無いのだ。
それが悪いとは思わない。
と言うかどういう経験であっても良い悪いは無いと思っている。
そうやって自己憐憫を味わいたい、という時期も人生の中には有るんだと思う。
自己憐憫に陥ることも人生の醍醐味の一つと言うか。
顕在意識ではその気はなくても、自己憐憫を楽しんでいると言えるだろう。
そういう場合は思いっ切り自己憐憫に陥っていれば、その内飽きてその状態から抜け出せると思う。
たぶんそれが一番早い抜け出し方じゃないかと思う。
自己憐憫は、自分でその状態から脱するのだと決めない限り抜けられないと思う。
自己憐憫は、自分や世界を攻撃する、つまり敵対する在り方なので孤独になる。
刺激を求める、つまり自分の外に意識が行っている人は、孤独にはすぐ飽きちゃうと思う。
だから放っといても、その状態からいつかは抜け出すことになる。
ほとんどの人はこちらじゃないかと思う。
しかし、刺激はもう要らないとなっている人、つまり自分の内に意識が向いている人は、孤独が必要となっている。
自分の中を観察しているから、自己憐憫の仕組みにもいつか気付くだろう。
気付いたら、その概念は手放すことが出来る。自己憐憫の元にある概念を手放すことで自己憐憫から脱せるだろう。
ただ、いつその状態になるかは個人差が有るように感じる。人によっては何年もかかるかも知れない。
自己憐憫は手放せても。孤独は手放せないとなることもあると思う。
このような経緯を経る経ないに関わらず、自己憐憫に陥っていない状態、いじけていない状態に在る人は、
窮地に陥っても何とかしてこの窮地から脱したいと思うので、何かそのヒントになることはないか?という意識になるようだ。
たぶん、この状態を一言で表現するならそれは「素直」だと思う。
素直に関しては別に書いた。
だから窮地に陥るということにも、このように良い面もあると思う。
何にでも良い面悪い面があることの良い例だと思う。