泣かれるのが嫌だった | 自分世界探検家のブログ

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人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

他人、特に女性が泣くのを見るのが嫌だった。

 

相談を受けたり議論してる時に泣かれるのは最悪だと感じていた。

 

当時のぼくは思考至上主義とでも言うか、

正しく考えれば何でも理解出来るし、正解に辿り着くと信じていた。

 

その思考は理性の元で初めて正しく機能する。

だから、理性を失う状態になってはいけないと思っていた。

そして、感情的になった時は理性を失うと信じていた。

 

それで感情を相手にすることを避けていた。

今考えると、他人の感情の影響を受け易い体質なのかも知れない。

それがいつしか怖れになっていたのだと思う。

 

理屈で話そうとしているのに、泣かれると感情がむき出しになっているようで、

全く理屈が通らないように感じた。

そうなっちゃうと、もう何も話せなくなる。

ぼくが感情的にならないタイプだったので、

泣くというのは相当感情的になっていると感じた。

人と話そうとしているのに泣くという感覚が分からなかった。

我慢しろよと思っていた。
泣くのは議論することの放棄だと思っていた。

あと、子どもの頃にテレビで観た、涙は女の武器みたいなシーンが強く印象に残っていて、

泣くことは攻撃だと言う感覚もあった。

つまり、当時のぼくからすると、泣かれるというのは先制攻撃みたいな感じがあったように思う。

問答無用という訳だ。

こっちはケンカするつもりも無いのに、いきない怒鳴られたような気持ちになって、白けるのだ。

 

 

いろいろ書いたけど、

正面向かっている人に泣かれると、自分が悪い事をしたように感じてしまっていた。

当惑もあった。

何か事故にあったような、損したような貧乏くじを引いたようななんとも嫌な気持ちになった。

 

 

感情的になることを自分に許せるようになってからはそういった考えは出なくなった。

そんなことで泣くのか!?と驚くことは有るかもしれないけど否定はしない。

 

人が感情的、特に強い感情に振り回されるのは、

ほとんど感情もどきだと思っている。

過去に信じ込んだ思い込みの呪縛のようなものだ。

 

だから、その人の本当の感情でもないし、特定の刺激に対する機械的な反応でしかない。

 

極端に言えば、催眠術にかかった人の反応を見ているような感じ。

 

だから、深刻にならない。

何かの思い込みに反応して感情的になっているということは、

その思い込みを手放すタイミングが来ているのだと思う。

 

それが手放せると良いね、楽になれると良いねと思う。

 

 

自然とはえらい違いだ。

 

書いていて気付いたけど、

以前のぼくは泣いている女性を見て嫌な気持ちになっていたのは、ぼくが反応を起こしていたからだろう。

 

その基に在った思い込みはいくつも在ったようだ。

だから理由を書き出しててみるとごちゃごちゃしているのだろう。

まあ、既に手放しちゃった思い込みなのであまりはっきりしないというのもあるけど。

 

こんな感じで、不要になった思い込みを手放すとかなり楽に過ごせるようになる。

 

 

例えば、高校の時野球部で、その頃の部員と毎年会っているけけど、

大会でサヨナラエラーをしたことを責められていつも泣くみたいなこともあるようだ。

 

それまで抑圧していた感情のエネルギーのようなものが、

この時発散されるので泣いた後はスッキリするかも知れない。

これを指してカタルシス=浄化という人もいるようだけど、ぼくは完全に機械的な反応だと思う。

浄化と言うよりは排泄行為に近い気がする。

 

この感情の基になる、例えばエラーしたのは自分にはもっとやりようがあったはずだというような考えを、

エラーはしたけど自分は最善を尽くしてあれ以上のプレーは出来なかったと

自分で納得出来ればもう責められても泣かなくなるかも知れない。

こういう罪悪感を生むような不要な思い込みを手放すことが本当のカタルシス=浄化だと思う。

 

 

そう思っているので、

泣かれても困惑はしないだろうけど、泣いているのに付き合う義務も無いと思う。