自由が有るというのは、選択権が有るということだと思う。
例えばプレゼントをもらうという時。
おすそ分けでも、旅行のお土産でも何でも良いんだけど、何かをもらうという場合のこと。
お土産にしようか。
それをもらって、喜んでおしまい、というのは自由な気がする。
そして、今度自分が旅行に行った時にそのことを全く忘れていて、何も買わずに帰って来たというのも自由な気がする。
また別の機会にたまたま、友人が欲しがっていた物を見付けたので買って帰ってプレゼントした、というのも自由な気がする。
これに対して、お土産をもらったから、すぐさまそれに見合う物を買って返すというのも有るだろう。
こういう場合、それをやりたくてやっているのか?借りを作りたくなくてやっているのか?で
自由か?不自由か?全く反対の在り方になってしまう。
やりたくてやるのは自由だろう。
貸し借りの計算からイーブンにしたくてやるのは取引きだと思う。
こういう貸し借り、損得、善悪、のような考えからの行動には自由を許さない感じが有る。
選ぶ余地が無い感じがするのだ。
〇〇だからやらない訳には行かないという訳だ。
これは自由をはく奪するためのひとつの技術だと感じる。
外部から巧妙にこの技術を使われている内に、無意識に自分にも使うようになってしまったのだろう。
この技術を常用する人は、他人もそうしていると信じているので、他人もちゃんとお返しをしないと気が済まない。
何で返さないんだ?何か悪意が有るんじゃないか?こちらはやることはやっているから、悪いのは向こうだ、
みたいになったりする。
物質的な損得でしか考えられないから、何でも数値化してバランスを取ろうとする。そして、その方法を自分にも課すのだ。
信頼関係や親しさみたいな感情も、全て損得で考える。
自分に得になるように振舞ってくれた人は優しいとか信頼出来ると分類する。
こういう人は自分を一番信じられない。
そして、もっとも求めているのは、その自分からの信頼なのだ。そして、そのことに気付けないでいる。
つまり、自分で選択の自由を放棄しておきながら、他人の選択の自由も認めないという在り方なのだ。
そして自分は善を気取るのだ。
気取るというか信じているんだろうけど、それが自分勝手な考えだということに気付いていない。
自由を取り返すには、こういった小さなところから始める必要が有ると思う。
自分がどうやって自由を放棄しているのか?
そしてそれはどうしてか?
何を信じているから自由を放棄することを選択しているのか?
人は本来的には自由なんだと思う。
しかし、不自由を感じるのは、自分で自由を放棄しているからじゃないかと思う。
他人や制度や文化によって自分の自由を奪われていると、外に目を向ける前に、
自分が自分に自由をどれくらい許しているか?を確認するべきだと思う。
自分の裁量を任されている範囲内でも、自分に自由を許せることは沢山有ると思う。
そして、その自分に自由を許すことが自分との信頼を築くことにつながるだろう。
信頼が欲しくて自由を放棄していたのに、
自由を採ったら自分からの信頼まで得られるなんて、なんてお得な話なんでしょう!?
そのことに最近気付いたけど、何の仕掛けも無い、当たり前のことのようだ。