正誤のジャッジというのは正しいか?間違っているか?の判断ということ。
ぼくはこれが元々得意では無かったんじゃないかな?と思う。
自分を観察していると、
人に何か言われたとか、何か体験したということが刺激になって、
強い感情のようなもの、ぼくは感情もどきと呼んでいるものが出て来ることが多かった。
何で感情もどきと呼んでいるか?と言えば、
似たようなシチューションで似たような刺激を受けると同じような感情が、かなり強く出て来るから。
これは刺激を受けた、自分の中の思い込みが反応を起こして感情みたいなものを出しているからだと思っている。
だから、機械のように、似た刺激にはほとんど同じような強さと種類の感情が出て来る。
そのために、同じシチュエーションを思い出すと同じ感情もどきが出るので観察し易く、
元になっている思い込みを特定することが出来る。
その思い込みには、ある似たような構造を持っているものが有ると感じていた。
それは正誤のジャッジに、損得を絡めたことに納得していないという記憶。
ぼくは間違っていないのに、何かしらの損失を被った、というような事件を引きずっていることが多い。
悪いことはしていないのに怒られた、とか、
指示に従ったのに悪い事をしたと言われた、とか。
子どもの頃の経験に限ったことでは無い。
車で、道の合流で、挨拶したのに入れてもらえなかったとか、
電車に乗っていたら、ぶつかって来た奴が謝らなかったとか、
大人になってからもこういう考えにこだわりが有るようだ。
この傾向は自分を観察し始めて比較的すぐに気付いていた。
でも、何で正誤にこだわるのか?
そして、それが損得とセットなのか?
損得は、いわゆる馬の鼻先にぶら下げたニンジンのような物だろう。
ご褒美なのだと思う。
これが欲しければ正しくしなさいと言うことが強くインプットされていて、
正しいことが出来た!と思った時にご褒美がもらえないとこだわるのだと思う。
たぶん、正しいジャッジをして正しい行いをするって、本来人は苦手なんじゃないだろうか?
だけど、それを長い時間をかけて教育される。
つまり、怒られたり、罰を受けたりと、散々嫌な目に合って、どうにか身に付けている。
しかし、それはかなり幼少の頃にクリアする人がほとんどなので、みんなその苦労を忘れてしまう、
と言うか、厳密には抑圧して思い出さないようにしているのではないか?、と思う。
その時の納得行かない気持ちを抑圧していて、
同じようなシチュエーションを経験した時に、その抑圧していたエネルギーが吹き出すのではないかと思う。
そういう土壌が有って、
その上で、勧善懲悪のドラマの影響というか刷り込みがあって、
始めて犯罪を犯した人は、差別したり攻撃しても良い、いやむしろされるべき存在だと考えるようになるのではないかと思うのだ。
被害者が加害者に対して、仕返ししたいと思うのは想像し易い。
冷静に考えれば、仕返ししても、何も状況は変わらないのだが、人の気持ちとして分かるような気がする。
これは損得とか、平等とかそういう考えから来ているような気がする。
しかし、その事件には全く関係無い部外者である、言わば見物人が
積極的に加害者を批難したり、個人情報を拡散させたり無言電話をかけるなどの攻撃行動に出るのは、
何となく悪い奴は懲らしめて良いと思っているような気がする。
あるいは、悪い奴に自分の悪い部分を投影して、懲らしめることでそれを否定しているのかも知れない。
いずれにしても、そういう考えは潜在意識で働いているから分からないだけだろう。
正誤の怪しい部分は、実は明確な基準が無いことだろう。
まず法的な規範がある。
そして、社会規範、常識、雰囲気といった不文律がある。
それから、自分の所属するコミュニティの規範がある。
また自分の所属するコミュニティの常識、雰囲気といった不文律がある。
こんな感じで、自分の外に様々なルールが存在するように感じられる。
しかし、自分が従っているのは自分の中の基準だけだろう。
そしてこれは感情や状況などに大きく左右される気がする。
つまり、正しさのジャッジの基準は一人一人違うということ。
だから、正しいことをしているつもりで、悪いことをしているというのは簡単に起こり得る。
しかし、実際に正誤をジャッジされるという場では、どうやら多数決で決められるようだ。
正しいかどうかを正しくジャッジするというのは、この多数決の結果を予想すると言うことかも知れない。
それは難しい!と感じるのはぼくだけだろうか?
正しいかどうかを正しくジャッジするのは難しいから、
自分の判断を厳しくして自分を制限することで、間違いを犯さないようにしているように感じる。
そして、それが自分の自由を必要以上に制限している、
一つの大きな要因になっているのだと思う。