自分に好奇心を持つ | 自分世界探検家のブログ

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人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

大病になったりすると実感するのが

自分の身体への不信感、不安感ではないだろうか?

 

ぼくの場合は適応障害だったけど、メンタルの不調に限らないと思う。

 

何がどうなっているのか分からない。

ただ、今まで無かった症状が出てて来る、あるいは今までもあった不快な状態に病名が付く。

 

何か悪い事をしただろうか?

いや、全然していないはずだ。

主治医に訊いても、他人に関する説明を聞かされているみたいで、何か全然納得出来なかったりする。

 

 

病気が発覚して、それが納得出来ない内は混乱ているんだろう。

その混乱はいつ起こったのか?と自問してもよく分からない。

診断が下った時にはもう混乱していたと思う。

 

自分の不調が分かっていないという時点で、

自分の状況が分かっていなかったんだなと思える。

それは混乱していたから、自分を顧みる余裕が無かったのではないだろうか。

 

 

自分に突き付けられている、この社会で生きて行くという負荷は、

背負うことが当たり前になっているけど、かなり過酷なものだと思う。

ぼくはそれを意識した時から混乱が始まっていたように思う。

 

「みんな頑張って生きているのだから、お前にだって出来るはずだ。

 人並みに出来ないなんて頑張りが足りないのだ。甘えているのだ。」

いつ教え込まれたのか、自分の中に自分を叱咤する声がずっと在った。

 

しかし、発病してみると、そんな要求はぼくには重過ぎたのだと思う。

 

こうやって考えてみると、ぼくは自分のことを全く分かっていなかったんだ、となる。

 

自分のこと、自分の内側のことを分かっていないのに、

外側のことを自分に良いようにしようとしていたのだ。

 

自分の本心を知らないのに、外側を自分の思う通りにしようなんて無理が有る。

 

だから、まずは自分を知ることが先決だと思う。

 

その為には自分に好奇心を持つところから始めるしかないと思う。

今まで自分とは、解決すべき問題の山、鍛錬すべき未熟者みたいに付き合って来たという感じがする。


こうなるべきとか、こうすべきという、求められる結果は明確なので、

それを達成出来るようになることだけに意識が行っていて、自分の現状にはほとんど意識が向いていない状態。

そして、そんな現状を省みない生き方の中間結果として、ぼくの場合は適応障害という診断をくだされているのだろう。

頭の中の自分のイメージと、現実の自分が乖離してしまっていたからだ。

簡単に言えば、自分をいじめて来た結果ということ。

これをやらないと生きていけなくなる、というのがいつも自分に言い聞かせていた決まり文句だった。

そして、嫌なことを自分に強いて来た。
そして、とうとう死んだってやりたくない!もう出来ない!と心が反乱を起こしたのだと思う。

そうなってぼくは、初めて自分に本当の意味での興味の目を向けるようになった。
だって動きたくても動けないし、何にも興味が湧かないのだからしょうがない。

観るとも無く、自分の中を覗き込むことになる。

誰も助けてくれないと感じていた。
それはそうだ。

ぼくの周囲には心の専門家はいないし、

それ以前にぼくが助けを求めていないのだから、助けようとは思わないだろう。

これがしばらく分からなかった。
見捨てられたように感じていたが、それだけ自分が受け身になっていたということなのだろう。
与えられたことを、命令されたことをちゃんとやるという生き方しかして来なかった結果が、

自分が何を望んでいるのかも分からないという状況だった。

自分で書いていて赤ちゃんみたいだな、と思った。
自分で生きて来たように感じていたけど、そうじゃなかったのだろう。

誰かの真似や、誰かの命令に従って、振り回されて生きて来て、

振り回されることに耐えられなくなった状態だったのかも知れない。

振り回されるのはもう嫌だとなると、自分の脚で立って歩くしかない訳だ。
そうなって初めて、自分は歩けるのか?となった。その前に生きていけるのか?と。
それが自分に好奇心を持つきっかけになったのかも知れない。

 

今になって思い返すと、適応障害になること自体は、身体の正常な働きのひとつだと感じる。

たぶん適応障害になっていなかったら死んでいたと思う。

間違っていたのは、ぼくの自分への扱いだった。

ぼくの自分との付き合い方が病んでいたのだ。