人をその人そのままで見るということは、現状の日本では難しいことなのかも知れない。
みんな自分も他人も役割で見ている。
母親とか奥さんとか。
課長とかお父さんとか。
会社員とか接客業の店員さんとか。
お巡りさんとかお医者さんとか。
そして、それぞれの役割には自分勝手な先入観がある。
その先入観どおりの役割りになっているかどうか?でその人を判断している。
良いお母さんとか、こわいおじさんとか。
その中でも、母親という役割は大変なイメージを背負わされている気がする。
しかし、一番大変なのはお母さんじゃないと思う。
それは誰かと言えば、自分だ。
過大な期待をかけられ、プレッシャーは凄いんじゃないだろうか?
恐ろしいのは、それを自分で自分に対してしている、ということ。
自分は母親なんだから、しっかりしなければいけない。
3食作って、家事一切を完璧にこなして、いつも笑顔で明るく、出来れば美しくみたいな。
自分がどう思っているのか?
自分がどういう人なのか?
そんなことも知らずに、ただ自分に割り振られた役割を自分が思っているように完璧に演じることを常に自分に課している。
そういう人は、他人にも同じように、その人の役割りをこなすことを求める、と言うか強要する。
自分はやっているんだから、あんたもやりなさいよ!やらないでとうするの!みんなが困るじゃないの!
という訳だ。
完璧な母親、完璧な父親、完璧な子どもによって構成される完璧な家族。
観客は自分たちしかいない、空虚なドラマが延々続く。
そこには、本当の自分を出す人はいない。
求められる役割り、求められる演技を続けていくだけだ。
まるで演劇だ。
それが生きている間ずっと続くのだ。
人生という舞台で延々と演技し続けるという地獄。
いつしか子どもたちもそれが当たり前となって、それが生きることだと諦めてしまう。
自分の人生を生きることを諦めてしまうのだ。
しかし、そんな自分ではない人生を生きるように人は出来ていない。
いつしか、そのドラマは破綻する。
しかし、それは自然なことであり、また自分の人生を生きるきっかけにもなり得る。
虚構を成立させられなくなって、現実が顔を出す瞬間だ。
その時に、問われるのが、許すことが出来るか?ということ。
虚構の世界への未練を捨てて、現実を認められるか?
自分の理想とする役割りを捨てられるか?
実際の自分を直視して、それを隠さずに生きられるか?
これは全部同じことを言っている。
過去にこだわらずに、未来を恐れずに今を自分らしく生きられるか?ということ。
そうなるともう、役割りには縛られない。
役割りを認識しながらも自分らしく居られる。
自分を役割りに合わせるのではなく、役割りを自分に合わせる。
そうなった時に、初めて人生はその本当の姿を見せてくれるだろう。