ぼくが大事に思っていることを大事に思わない人がいる。
そりゃいるだろう。こんだけ大勢の人がいれば。
何を大事にするかは自由だし、大事にしないのも自由。
そんなこと分かっちゃいる。
分かっちゃいるけど、それが嫌だった。
その気持ちが特に出て来るのは、箸の持ち方、言葉の使い方。
こういったことには、ぼくなりの美学があるようで、
変な箸の持ち方や変な言葉使いは大嫌いなのだ。
大嫌いと言うより腹が立つ。
しかし、何で怒りの対象になるのかが自分でもよく分からなかった。
こういう何故か強い感情が出て来ることは、
だいたい潜在意識で何かが起こっているからだ。
だから、結果として出て来た感情は分かるけど、
その経緯は顕在意識では分かり難い。
だから永い間謎だったけど、
この程何となく分かった。
それは、ぼくに嫌な思いをさせている、敵意の現れなのだという考えがあるからのようなのだ。
完全な言いがかりなのだが、そう思っていたんだからしょうがない。
幼少の頃からの思い癖なのだろう。
そして、そんな考えはぼくの勝手な解釈だということが今日分かった。
箸の持ち方、言葉の使い方なんて全く気にしない人も居るのだ。
むしろ言葉の使い方なんて年々崩れている気がする。
しかし、そうだからと言って、ぼくに嫌がらせをしようとしている訳ではないのだ。
全部勘違いだった!
この思い込みのせいで、今までどれくらい嫌な思いをして来たのか計り知れない。
こんなことはいくらでも起こり得る。
こんな思い込みがあるから、世界は自分に敵対していると思うのも無理は無いかも知れない。
いや、逆かな?
世界は自分に敵対していると思っていたから、大勢の人がぼくに嫌がらせをすることも有り得ると考えたのだろう。
今回この思い込みに気付けたのは、
世界は自分に敵対しているとは思わなくなったことが影響しているようだ。
事は世界観にまで及ぶ大きな話だったんだな。
まあ、ぼく個人だけのことだけど。
引きこもりの人は、多かれ少なかれこのような思い込み、
と言うか、勘違いをしているのではないだろうか?
他人は、世界は自分に対して敵対して来る、みたいな。
だから、自分は自分一人で世界と戦って行かなければいけない。
そんな風に感じたら、途方も無い難題を抱えて生きて行くことになる。
絶望したり、動けなくなってもしょうがないと感じる。
それが、そんなことは無いんだよ、勘違いでした~
となったら、そりゃ驚くでしょ!?